〓西鉄・太平洋クラブ・クラウンライター〓Vol.20〓

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194神様仏様名無し様
「三塁はオレが頂くぞ」大張り切り、帰ってきた伊原

「もう一度、平和台で野球がやりたかった」
その懐かしいスタンドに立って”出戻り”伊原は、本当に嬉しそうな表情を見せた。

巨人を辞める時、他球団からも誘いはあったが、とにかく目的は一つ。
だから、任意引退を頼み込んでまで自由契約にしてもらった。
「二年間、巨人で勉強したことをライオンズで生かしたい」今はただそれだけだと言う。

この伊原、巨人に移籍する時は、いわば負け犬だった。(昭和)46年、芝工大から大型三塁手として西鉄に入団。
そのシーズン39試合で打率.270、2本塁打の数字を残している。二年目は118試合に出場、打率.241、7本塁打で
レギュラーの位置を確保したかに見えたが(リーグ最多の23失策)、三年目の前半はローダイ・ライオンズ(1A)へ
武者修行。四年目の(昭和)49年は、ビュフォードが三塁を守った為、不慣れな遊撃手に回って後半は梅田との併用。
そして五年目は、江藤監督に「野球を舐めとる」と誤解されたまま、その年の暮れに、加藤初と関本、玉井のトレードに
添え物として巨人へ。この時、球団の考えは、来期(昭和51年)は、山村善を三塁に起用する方向で固まっていた。

「言ってみれば、山村君に敗れたようなものでしょう。その山村君と三塁のポジション争い。
あの時の悔しさをグラウンドにぶつけます」。伊原は山村との勝負に自信ありげだ。

この自信は、二年間の巨人での生活からくるようだ。
「ライオンズの時は、他のチームのことを全く知らず、いわばお山の大将のような気持ちでいた。
コーチの言うことも余り聞かず、我流を押し通していましたからね」
その伊原が巨人で見せつけられたものは、野球に取り組む姿勢の厳しさだった。
「何もかもがビックリ。自主トレの最初から王さん、末次さんらが先頭切って走っている。
自分がいかに甘かったかを考えさせられた」

巨人一年目は、イースタンリーグで3割を打ち、首位打者を同僚の大北と争ったが敗れた。
一軍には9試合に出場しただけ。昨年(昭和52年=1977年)は、8月初旬の東北遠征で左手甲に死球を受け
亀裂骨折、チャンスをつかみそこねた。だが、二年間、常にファームながら巨人の四番打者として頑張ってきた実績が
伊原を精神的にも大きく成長させた。いい素質を持ちながら、何となく不運な運命に弄ばれてきた感じの伊原にとって、
今度こそが選手生命を懸けた最後の場所だ。

”グラウンドに命を懸ける選手”を求める根本新監督にとっては、まさにピッタリの選手。
本人も「今度こそ、自分の力で運命を切り開く」と、殺気をも感じさせる口ぶりで語った。(池野)

[西日本スポーツ 昭和53年(1978年)1月10日付け2面] 写真は平和台のスタンドでガッツポーズを取る伊原