魔球パームボールを使って打たせてとるピッチングで320勝を達成した
精密機械こと小山正明について語ろう!
算73無四球試合を記録するなど制球に長け、「針の穴を通すコントロール」「精密機械」と称された。
兵庫県立高砂高等学校3年秋の1952年(昭和27年)に大阪タイガースのテストを受けるも結果通知がこなかったため大洋ホエールズの入団テストを受ける。
しかし、この年大洋ホエールズは松竹ロビンスとの合併により選手が溢れていたため不合格となる。その後、合格通知がタイガースより届きテスト生として入団。
もし大投手、小山が大洋に合格していたら、どうなっていただろう。
当初は打撃投手としての扱いを受けながらも1年目1953年(昭和28年)には5勝、2年目の1954年(昭和29年)に11勝をあげて頭角を現す。
1956年(昭和31年)から主力投手として本格的に登板。1958年(昭和33年)から3年連続20勝以上。
1962年(昭和37年)は村山実と共にエースとしてチームの優勝に貢献。ファンの間ではシーズンMVPは勝利数の小山か防御率の村山かで激論が交わされた。
結果として、村山がMVP、小山が沢村賞をそれぞれ受賞した。
1963年(昭和38年)オフ、長打の打てる打者がほしかった阪神とエース投手がほしかった東京オリオンズとの思惑が一致し、小山と山内一弘の「世紀のトレード」が成立して小山はオリオンズに移籍。
オリオンズの本拠地球場は甲子園よりも狭い東京スタジアムであったため小山の移籍は不利であると思われたが、新球パームボールを用いた打たせて取る投球を駆使し、移籍1年目の1964年(昭和39年)に30勝をあげ最多勝に輝いた。
続く1965年(昭和40年)と1966年(昭和41年)に2年連続20勝。1970年(昭和45年)のリーグ優勝に多く貢献した。
1972年(昭和47年)に引退し1973年(昭和48年)に大洋の投手コーチに就任するが、シーズン途中、青田昇監督の要請で現役に復帰して同年限りで引退。
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【320勝】小山正明【精密機械】
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