◆もしも王貞治がメジャーに挑戦していたら 7◆

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11神様仏様名無し様
●1966年
ナリーグを連覇したLAドジャースが来日。8勝9敗
王は大会最多の5本塁打を放つ活躍をみせ、「フラミンゴ打法」の存在をアメリカに示した。
また王の他にも、新人・堀内の投球が絶賛される。

●1968年
ナ王者のSTLカージナルスが来日。結果はMLBの13勝5敗。この年最も注目されていたのはMLBの年間最多三振を上回る
401奪三振をマークした江夏豊で、戦前から「エナツとは何者だ」と噂されていた。その期待に応え、初登板では3イニングを7奪三振。
最終的にも9回を15奪三振という快投を見せ付けた。また王貞治の打棒も爆発。いきなり初戦からエースのカールトンから超特大本塁打
を放ち、屈強のメジャーリーガーに「OH」の名をさらに植えつけることとなる。6本塁打は日米通じて1位。

●1970年
この年は、SFジャイアンツが春に来日した変則大会だった。3月21日〜3月29日開催なのでまさに開幕直前である。王は開幕戦のみ登場し、
なんと6打席全打席出塁し、2本塁打3打点の大活躍。長嶋とのアベックホーマーもあり、延長11回の戦いを制した。西海岸から寒い日本に
きたSFジャイアンツは、3勝6敗で来日MLBチーム初の負け越し。わずか1試合出場ながら2本塁打はMLBウィクターと並んでトップタイ。

●1971年
2年連続アリーグ王者のBALオリオールズが来日。12勝2敗4分と圧倒的な力を見せ付けた。第7戦では、オ軍ドブソンがノーヒットノーランを記録。
「マークしたのはオーだけだ」という余裕の発言だった。王は、この年はまったく打てずも、3本塁打でかろうじて存在感をみせた。3本塁打はNPBトップも
MLBでは4本塁打以上が4人。

●1974年
この年は、今まで来日した選手・関係者のみの間で凄いヤツがいると噂されるにとどまっていた「Sadaharu Oh」」の名が全米で轟くきっかけとなる大会
となった。それはメッツとの第6戦前に行われた、ハンク・アーロンとの「本塁打競争」がアメリカでも中継されることとなったからだ。結果は10対9でアーロ
ンの辛勝であったが、王の独特のフォームと独特の名はこれによりアメリカの野球ファンに広まった。本塁打競争後の12試合でも5本塁打を放った(6本塁打は2位)
。ちなみにメッツの一員として来日したトーリ(現NYY監督)は、メッツ移籍後初の試合が日米野球だった。MLB9勝7敗2分。

●1978年
ビッグ・レッド・マシンことCINレッズが来日。ピート・ローズ、トム・シーバー、ジョージ・フォスター、ジョニー・ベンチ、グリフィーシニアとMLBを代表する
人気選手が集まった。MLBの14勝2敗1分。王は不調に終わったが、トム・シーバーから本塁打を放つ。2本塁打はNPBトップ

●1979年
初のMLBオールスターチームの来日で2戦のみ開催。結果は1勝1敗。王は、晩年を迎えていたが、ナックルボーラー、ニークロにまったく
タイミングが合わず空振り三振。この大会は無安打に終わった。


●日米野球打撃総括
王貞治の凄さは、本塁打を数多く打ったこと以上に、
「MLB相手でもNPBと同じように四球で歩いた」ことであると思います。

また、日米野球に出場し続けた王貞治のスターとしての姿勢も大いに評価すべき点です。
王は二本足の頃から、晩年体力が衰え一本足が流れてきた時まで、
ほぼすべての日米野球の大会に出場し、そしてホームランを狙い続けてきました。
(出場してない試合は、巨人以外の単独チームあるいは全日本での戦いがほとんどです。新人の頃は
全日本に選ばれる実力がなかったので、ほぼ全試合出たと言ってもいいでしょう)
それは、ファンのためでもあり、来日するMLB選手への礼儀であったとも思います。
考えてみれば、王の時代、巨人は全盛期。
日本シリーズにもほぼ毎年出場していたわけですから、他のNPB選手よりも
当然、肉体的にも精神的にも疲れは蓄積していたことでしょう。
にもかかわらず、王貞治は、NPBのホスト的役割も兼ねながら、日米野球に出場し続けました。

日本野球界に超スーパースターが不在といわれるのは、こんなところにも理由があるかもしれませんね。