最初に出口雄大右翼手(神戸引陵ー巨人ーダイエー・ソフトバンク)の話を書く。
その方が、一つの守備がどれほど重みがあるかを理解してもらえると思うからだ。
出口は平成元年にドラフト外で巨人に入団した。
当時は俊足強肩を評価されていた内野手だった。
しかし、ドラフト外での入団で分かるように、首脳陣の評価は決して高くなかった。
「上手く育てば儲けものだ」その程度の認識だった。
その証拠に、出口が初めて1軍に上がったのは、入団してから7年経った平成7年である。
「おい、出口。お前は明日から1軍だ。」
2軍の首脳陣に1軍行きを告げられた時、出口は心の中でこう思っていただろう。
「俺は骨が舎利になっても1軍に残ってみせる」
そして迎えた平成7年9月19日、出口は7番・二塁手として先発起用された。
相手は中日ドラゴンズのエース、今中慎二投手である。
「何が何でもこのチャンスを逃す訳にはいかない」
そう決意して、出口は思い切ってバットを振った。
結果は、なんと本塁打である。
プロ初打席が本塁打、これは並の選手に出来ることではない。
「この男、守備と足だけでなく、打撃にも光るものがある」
この日を境に、出口は1軍の戦力として認められるようになった。
翌平成8年には、外野手に転向して73試合に出場、
打率こそ2割2分2厘だったが、貴重な控え選手としての地位を獲得した。
だが、男の人生なんて1年先が分からない。
あくる平成9年、開幕してから出口の出番は全くと言っていいほど無かった。
それでも出口は腐らずに出番を待ち続けた。
そして、ようやく回ってきた出番で出口は大きな仕事をやってのけた。
6月17日に神宮球場で行われたヤクルト戦は延長14回までもつれ込む大熱戦となった。
試合は14回表に1点を勝ち越した巨人が2−1とリードしていたが、
この時首位だったヤクルトも必死に食い下がってくる。
二死二塁で打席には副島孔太右翼手(桐蔭学園ー法政大学)が入った。
副島の打球は一二塁間を破り、出口の前に転がってきた。
「よし、これで同点だあ」ヤクルトの首脳陣や選手は誰もがそう思っていた。
ところが、出口が本塁へ素晴らしい送球を見せた。
二塁走者は本塁上でタッチアウト、もちろん試合終了である。
このバックホームに、私は出口の意地を見たと思った。
それでも、出口の出番が増えることは無く、この試合を含めても7試合に出場しただけ、
当然、安打は1本も無かった。
「これで俺も首か」出口はそう思っていた。
ところが、フロントの人間は開口一番こう切り出した。
「なぁ、出口君。あのバックホームは凄かったなぁ。来年も頑張ってくれよ」
何のことは無い。あの日のバックホーム一つで出口の首はつながったのである。
それでも、平成10年のシーズンもわずか6試合の出場に終わると、
フロントも我慢しきれなくなり、出口に戦力外通告を行った。
出口は福岡ダイエーホークスの入団テストを受験した。
王貞治監督は出口を一目見て、その素質の高さに惚れこんだ。
「この男には何も言うことはない。ただ、試合に出してやれば良い」
こうして、出口のダイエー入団が決まった。
だが、ダイエーの外野は村松有人左翼手、柴原洋中堅手、秋山幸二右翼手など実力者が揃っている。
そして、出口自身の相次ぐ怪我もあり、なかなか出番が回ってこなかった。
転機が訪れたのは、平成14年の夏だった。
秋山幸二右翼手がこの年限りでの現役引退を発表したことで、右翼のポジジョンが空いたのである。
これを機に出番が増え、終わってみれば、57試合に出場して、
2割6分8厘、6本塁打、24打点の成績を残した。
ところが、男の人生は3年先が分からない。
平成17年5月19日、福岡Yahoo! JAPANドームで行われた巨人戦で
右翼の守備についていた出口は信じられないミスを犯してしまう。
二岡智宏遊撃手の打球を右脚に当ててしまい、そのまま後逸、
なんとランニング本塁打にしてしまった。
ベンチに引き上げてくると王監督は出口に告げた。
「お前の売りは守備だろう。それなのにあれはどういうことなんだ」
こうして、出口は二軍に落とされてしまった。
シーズン終了後、フロントは出口のこのミスを怪我の影響によるものと判断、
「今季は出番も無かったし、怪我も多い。ここらあたりが潮時だろう」と出口に戦力外を通告した。
出口は、12球団合同トライアウトに参加したが、
獲得に名乗りを挙げる球団は何処も無く、そのまま現役を引退した。
たった1回の守備でミスをしたことが引き金となって
出口の野球人生は終わってしまったのである。
出口の話が長くなった。本題に入ろうと思う。
私が今から書くのは、李炳圭右翼手(奨忠高校ー壇国大学ー韓国・LG)についてである。
李炳圭は韓国では走攻守3拍子揃った強打者として大活躍していた。
最多安打4回、最多得点1回、首位打者1回という輝かしい成績である。
その評判を背負って2007年に中日ドラゴンズに入団した。
「韓国で4度も最多安打を獲得した選手が来る」
ファンは李炳圭に大きな期待を寄せていた。
しかし、いざシーズンが始まると、その期待は大きく裏切られた。
打撃で結果を残せないのはまだしも、守備までもが緩慢なのだ。
「李炳圭の守備はなんとかならないの。あれじゃあ投手がかわいそうだ」
辛抱強く起用してきた首脳陣も、さすがにかばいきれなくなったのだろう。
夏ごろには、2軍落ちを決断した。
こうして李炳圭の1年目は2割6分1厘、9本塁打、46打点の成績しか残せなかった。
だが、男の人生なんて3ヶ月先どころか3日先が分からない。
公式戦ではパッとしなかった李炳圭が、プレーオフでは無類の勝負強さを発揮した。
李炳圭の活躍もあって、中日ドラゴンズは気がつけば53年ぶりの日本一になっていた。
ところで、この年は12月頭に北京オリンピック野球のアジア地区予選大会を控えていた。
李炳圭は、もちろん韓国代表として召集された。
なにしろ韓国では走攻守そろった最強の打者の一人なのだ。
2000年のシドニーオリンピック、2006年のWBCと国際大会の経験も豊富なのだから
これで代表選手に選ばれないほうがおかしい。
12月1日に行われた台湾戦では李炳圭は6番・右翼手として先発起用された。
ところが、李炳圭の動きから気迫のようなものが、まるで伝わってこない。
「台湾ならいつでも勝てる」というような、なんとものんびりした動きなのである。
極めつけは、3−1と韓国が2点リードして迎えた6回の守備だった。
場面は2死1塁、打者は5番・張泰山三塁手である。
張泰山の打球はライト線を破る打球となった。
打球が早かったので、1塁走者の本塁生還は無理なようにも見えた。
韓国代表の首脳陣や、マウンドに立っていた朴賛浩投手は
「助かった。この打球なら1塁走者の本塁生還は無い」と安堵しきっていた。
ところが、1塁走者の張建銘は悠々と本塁へ生還してきた。
右翼手である李炳圭の打球処理があまりにも緩慢だったからである。
これで3−2、次の打者の高國慶一塁手に安打が出れば、たちまち同点になる。
幸い、朴賛浩投手が高國慶一塁手を抑え、事なきを得た。
最終的に、この試合は5−2で韓国が勝った。
それでも金卿文監督は納得が出来ない。
「勝つには勝った。だが、李炳圭の守備がなければ、もっと楽に勝てたはずだ」
その後、韓国は日本との試合に4−3で破れたことで、
オリンピック出場決定は2008年3月に行われる世界最終予選まで持越しとなった。
2008年1月14日、韓国野球委員会技術委員会は、世界最終予選のための代表候補選手36人を発表したが、
そこには李炳圭の名前は無かった。
理由は「最善を尽くさなかったから」だそうだ。
たった1回の守備で、李炳圭は代表選手の座を逃してしまったことになる。
男の人生はいつどこで何が起こるか分からない。
だからこそ、何事にも最善を尽くせという話なのか。