幻の速球投手 森安敏明

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球界追放後の森安氏の動向

●70〜72年頃は、歌舞伎町などでバーテンをする。
●71年、根室のイカ漁の船に乗り、そこで喧嘩になり、傷害事件を起こす。
●72年、新宿で喧嘩。またも傷害事件を起こす。
●71〜72年頃、シンガーソングライターの小宮四郎安光氏のスナック『アルタン』の常連となる。
●それが縁で、72年8月、小宮四郎氏・作詞作曲の演歌『ひとりぐらいは』をリリース。
●72年秋『ひとりぐらいは』の売り込みキャンペーンで、札幌に行くが、そこで契約トラブルがあり、
 また、頭を下げて歌を売り込む生活にも馴染めず、キャンペーンを投げ出す。
●そのまま札幌に居つく。
●同じく球界を永久追放になった永易將之氏が、札幌・薄野で、スナックをやっており、一時期、その店を手伝う。
●73年、薄野でスナックを開いていた女性と結婚するも、のちに離婚。
●それと時期を同じくして、永易氏の店を辞め、大黒自工(自動車整備工場)に勤務するようになる。
●この時期、北海道遠征してきた、かつてのチームメイトを飲みに誘うが、
 あからさまに「ややこしいヤツとは付き合わない方が良い」という雰囲気で断られる。
●自動車事故で入院したため大黒自工を退社。
●リッカー(ミシン会社)札幌総括支店にセールスマンとして勤める。
●セールスに行った際、「あんた、東映にいた森安に似てるわ」と言われ「その本人ですよ」と答える。
●この頃は、リッカーの社内野球でも、ボコボコに打ち込まれるようになっていた
 (上記根室での喧嘩で、右手の腱が6本も切れたことが響いてるようだ)。
●リッカー札幌総括支店の粉飾決済を察し、この会社は危ないと思い退社。
●母親の住んでいた大阪府泉南市に身を寄せる。
●83年8月より白寿生科学研究所(健康器具会社)大阪支店にセールスマンとして勤務。
●83年11月より東和運輸大阪支店に勤務。
 この会社の本社は岡山にある。就職の話を斡旋したのは母校・岡山・関西高校のOBだった。
●84年3月、再婚。
●途中より、岡山本社勤務となる。
●岡山でも、関西高校野球部OB会に出席しようとしても、一部のOBに反対され出席できないなどの憂き目に会う。
●98年7月29日、岡山市内の病院で心不全のため死去。まだ50歳の若さだった。