>>44 この年表を見てみると、改めてルースの神っぷりがよくわかるね。
1920年にHR54本なんて、今でいえば「HR100本」みたいな感じの想像を絶するような数字だったんだろうね。
68 :
44:2005/06/07(火) 23:39:26 ID:Bv8kCT6l
>>44ですが、ちょっと間違ってたみたいです。
飛ぶボールになったのは1920年からではなく、1919年からというのが正しいようです。
まさしくその1919年に、ルースが投手を兼ねつつ新記録となる29本塁打を
放ったわけですね
70 :
44:2005/06/08(水) 18:40:37 ID:ssDvEOQS
>>69 ですね。
ルースは20年にヤンキースに移り54本のHRを打ったため、この年がライブボール元年
だという錯覚が広まってしまったようなのですが、これは所属チームの本拠地球場の
差による錯覚だったようです。
ルースは19年にも29本打ってますが、当時のフェンウェイパークはリーグで最もHRが
出にくい球場だったようで、29本のうち、本拠地で放ったHRはわずかに9本にとどまっています。
(ちなみにこの年、相手チームがフェンウェイパークで放ったHRは合計でたったの3本)
一方、当時のヤンキースの本拠地であるポロ・グラウンドは、逆に最もHRの出やすい球場
で、この違いがルースの20年のHR数急増につながっているようです。
クレイグ・ライトの計算によると、19年のルースが平均的な球場を本拠地とするチーム
に所属していたと仮定すると、41本打っていたことになるそうです。また、ポロ・グラウンド
を本拠地にしていたと仮定すると、55本打っていたペースに相当するとのことです。
ttp://www.baseball-reference.com/teams/BOS/1919.shtml ↑19年のボストンのチーム成績をみてみると、チーム全体のHR数33本のうち29本を
ルースが打っており、驚かされます。
>>71 余計なお世話かもしれないが補筆
「ボストンの全15HR中」ね
ムハー
74 :
神様仏様名無し様:2005/07/16(土) 19:04:28 ID:JZ8GDYtv
プ、プ、プギャープギャプギャプ♪
\ ププププギャプギャププギャプギャ/
♪ (^Д^) ♪
_m9 )>_ キュッキュ♪
/.◎。/◎。/|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
75 :
神様仏様名無し様:2005/07/17(日) 00:18:18 ID:nTgISt/5
昔の大リーグなんて伝説としか思えないな
保守
アゲ
誰も関心が無い&知らないので語れない
79 :
神様仏様名無し様:2005/10/10(月) 14:04:56 ID:hrS59iHB
向こうのコアな野球掲示板ならいろんな話聞けそうだが・・・
もう文化史の領域だな、こりゃ
>>1-79 全員ニワカ
逝ってよし!
プップクプー♪
多少興味もあるから色々調べているけど、打点や盗塁の記録が何年も抜けていたりルールも
かなり違っていたりと.........
例えば1884年の投手の勝ち星が
ラドボーン(プロビデンス)75試合 60勝12敗 679イニング 1.38
を筆頭に40勝台が2人、30勝台が2人と.............
今の野球と似て非なるスポーツと考えた方が良いくらいだな
82 :
神様仏様名無し様:2005/10/22(土) 01:40:51 ID:aesHGcN3
ラドボーン59勝なのか60勝なのかどっちなんだろ
>>82 色々見解はある様ですけど......
ただラドボーンを60勝としている資料によると彼の通算が311勝となっているのに
対して、MLBの公式HPによると通算が309勝とあります(1884年シーズンの勝ち
星についての記述は見つからなかった)のでMLBとしてはどうやら59勝の見解をと
っている様ですね
ラドボーンはオーバースローが解禁になって以降もアンダースローで通した投手で
1884年のシーズンは大きなカーブ(当時カーブ自体を投げる投手はごく少数だっ
た)を武器に勝ちまくった様ですね
尚この年はシカゴのウィリアムソンが27本塁打という当時の「アンタッチャブル」
と言うべき記録(この記録は1919年にベーブ・ルース(レッドソックス)が29本
塁打を樹立するまで破られなかった)を作ったのですが、実は当時シカゴが本拠地
としたクラッカーボックスフィールドは両翼70m中堅100m(で合っていましたか
ね?)の文字通りの「箱庭」球場で、そんな状況で樹立した記録の様です
実際、この年のシカゴはチーム本塁打が142本と2位のバッファロー(39本塁打)
に103本もの差を付けてトップで本塁打も上位4人にシカゴの選手が20本台で並び
(他にシカゴは10本台が1人居た)それに次ぐのが14本塁打(それでもシカゴ以外
ではただ1人の2ケタ)という状況でした
一事不再理の立場と記録を追跡して誤りがあれば正す立場の違いでしょうね。
私はどちらかというと一事不再理の立場で59勝を支持するが
トータルベースボールなんかは徹底的に記録を再検証する立場のようですね
CBフィールドもパークファクター5の世にも珍しい球場として
取り上げられていますね。
>>83 あと、こまかいことながら‥‥
1884年のホームランについて、シカゴ以外で2桁打ったのはシンシナティの
ジョン・レイリーという選手のようですが、MLBのサイトでは「11本」としています
また、同年のチーム本塁打、シカゴの142本につぐのは、同サイトの記録では
36本のボストンとシンシナティとなっております
86にはいろいろと事実誤認がありました。撤回します
>>81 ルールが大きく違う以上、異なるスポーツとして考える方が自然だと思いますよ。
90 :
83:2005/10/23(日) 22:33:32 ID:0sUIlXmO
>>89 そこまで狭かったのですか!!
さすがに驚きです
19世紀でこのホームラン記録に一番接近したのが1899年のバック・フリーマン(ワシントン)
の25本です
1990年米西戦争の影響でワシントン解散後はボストン(現ブレーブス)、翌年には結成された
ばかりのア・リーグの方のボストン(現レッドソックス)に移り、1902・1903の2年連続打点
トップ、1903年には13本で本塁打トップと19世紀末から20世紀初頭を代表する強打者として
活躍した様です
この19世紀末から20世紀初頭にかけての時期も比較的本塁打が増えている様にも見受けられま
すが、この辺の事情は一体どうだったのでしょうか?
1894年にバッテリー間の距離が延長されてる。
>>90 ピッツバーグが1891年から1909年まで本拠地としていた
Exposition Parkは両翼122m、センター137mだったそうですから、
その差に愕然としますね。
93 :
神様仏様名無し様:2005/11/27(日) 02:21:18 ID:s+EU85zW
45 名前: 世界の大量得点差試合 投稿日: 02/01/27 16:27 ID:???
野球の本場、アメリカでの記録
◎バファロー倶楽部VSコロンブス 209-10 (1869年)
◎アスレチックスVSダンフル 162-11 (1865年)
◎シカゴVSメンフィス 151-1 (1870年)
現在とは多少ルールがちがうだろうから、単純には比較
できないが、負けたほうがずいぶんとめげたのは一緒だろう(w
95 :
神様仏様名無し様:2005/12/05(月) 16:28:12 ID:KgF8SMeR
か
ほっしゃん
>>44-45を日本の状況も入れて再整理。
▼1883(明治16)年以前
1872(明治5) 第一大学区第一番中学(のちの開成学校、現在の東京大学)のアメリカ人教師、
ホーレス・ウィルソンがベースボールを伝える。
1878(明治11)アメリカより帰国した平岡●(●=にすいに煕)が、わが国初の本格的野球チーム
「新橋アスレチック倶楽部」を結成。
・この時代の投手は、ルールにより全員がアンダースロー
・1881年、投手の投げる位置(当時はプレートはなく「ボックス」だった)が、それまで
の45フィート(13.72 m)から50フィート(15.24 m)に下げられる。(50フィートの距離
から投げた128キロのボールは、現在の60フィート6インチ(18.44 m)の位置から投げた144キロのボールに相当する。)
・グラブの性能、グラウンドのコンディション等の要因により、エラーが今よりはるかに
多かったので、打者は転がすバッティングに専念していた。また、三振と四球が少なく、1試合あたりの投球数は現在と比べてずっと少なかった。
・1シーズンの試合数は、60〜100試合程度。
・バットが平面だったので、塁線ぎりぎりを狙うプレス・ヒット全盛。
・1876〜79年9ボールで出塁、1880〜81年8ボールで出塁、1882〜83年7ボールで出塁
▼1884(明治17)年〜1892(明治25)年
一高(のち東大教育学部)が郁文館(旧制中学)、明治学院などを破り黄金時代開始
・バットが今と同じ曲面になる。
・ルール改正により、投球に関するすべての制限がとりはずされ、オーバースローの投手が出現。サイ・ヤングをはじめとする速球派投手が活躍しはじめる。
・試合数が112試合に増え、また腕への負担が大きいオーバースローが普及したため、投手の負担が増した。
・1884〜85年6ボールで出塁、1886年7ボールで出塁(この年までは、打者が投球の高低を指定できた)
1887〜88年5ボールで出塁(1887年に限っては「五球」出塁を安打に算入)、1889年〜4ボールで出塁
▼1893(明治26)年〜1900(明治33)年
1894(明治27)中馬庚(一高)がベースボールを「野球」と訳す。
1896(明治29)第一高等学校が横浜外国人チームに29-4、32-5、22-7と勝利し、野球人気が全国的に高まる。
・1893年、極端な投高打低を改善するため、50フィートの位置にあったピッチャーズボックスが
廃止され、投手は60フィート6インチ離れたプレートにいっぽうの足をつけて投げなければならなくなった。
・これにより一気に打高投低となり、投手の1試合あたり投球数も急増。リーグ打率は
それ以前より3割5分ほどアップし、多くの4割打者が出現。
98 :
97:2005/12/25(日) 14:44:48 ID:Y6dKNlRi
▼1901(明治36)年〜1918(大正7)年
1903(明治36)早慶戦が始まる。初戦は慶11-9早。
1905(明治38)早大チームが初の米国遠征を行い、最新の野球技術を学んで帰国。
1906(明治39)応援の過熱により、早慶戦が中止となる。
1907(明治40)慶大が初めて外国チーム(ハワイ・セントルイス)を招待し、初の有料試合を行う。
1915(大正 4)全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園大会)が
参加73校、本大会出場10校で始まる。決勝は京都二中2(延長13回)1秋田中。
1918(大正 7)鈴鹿栄が少年野球用に軟式ボールを発明した
・1901年、NLが、それまではカウントしなかったファウルボールを、2ストライクになるまではストライクにカウントするルールへと変更。
これにより、リーグ平均得点は0.66点下がった。三振の数が急増し、四球の数が減少。ALも2年後に同様のルール変更。
・1試合あたりの投球数の急増によりますます増大していた投手への負担を軽減するため、
エース投手に集中していた登板数を、数名の投手に分散させる戦法がとられるようになる。
・グラブの性能がアップし、グラウンドもきちんと整備されるようになったため、守備が改善される。
・ボールに異物をなすりつけたり、紙やすりで傷をつけたりする特殊な変化球(スピット ボール、マッドボール、スカッフボール等)が次々と開発される。
・これら、投手に有利な条件が揃っていたため、この時代の打者は長打を狙わずこつこつ当てていくバッティングが主流。
▼1919(大正8)年〜
1920(大正9) 最初のプロチーム日本運動協会(芝浦協会)が誕生。
1923(大正12)最初のプロチーム同士の試合、芝浦(早稲田系)と天勝(慶応系)は1勝1敗。3戦目当日が関東大震災で中止。
1924(大正13)全国選抜中等学校野球大会(現在の春の甲子園大会)が出場8校で始まる。決勝は高松商2-0早実
甲子園球場完成。
1925(大正14)秋季より早慶戦が復活、東大の加盟により東京六大学リーグ戦始まる。
1926(大正15)明治神宮球場完成。
1927(昭和 2)都市対抗野球大会始まる。
・それまでの飛ばないボールにかわって、飛ぶボールが使われるようになる。また、試合中のボール交換も頻繁に行われるようになる。
・スピットボールをはじめとする特殊な変化球が禁止される。
・これにより、一気に安打数が増え、またボールが飛ぶようになったので長打も多くなった。
・特に1920年代には、それまでの長打を狙わず確実に当てていくバッティングが根強く残っていたため、4割近く打つ打者が数多く出現するようになる。
・日本でも和歌山中が4試合65点とか、渡辺大陸(明大)が12安打12四死球12奪三振で完投
>>97 細かいことだけど
> 一高(のちの東大教育学部)
というところ、教養学部の間違いね
最終行の「それ以前より3割5分ほどアップし」も、何かの間違いかと
100 :
神様仏様名無し様:2006/01/29(日) 12:12:57 ID:29XZ0EOD
ヒストリーチャンネルでやってる番組面白いな
101 :
神様仏様名無し様:2006/02/09(木) 15:32:09 ID:D4CIjy9Y
19世紀末には、大リーグに勝てる大学チームは無かったらしい。
イギリスのサッカーが、20世紀になってもFA杯で優勝する大学チームがあったのとは対照的。
102 :
神様仏様名無し様:2006/02/14(火) 09:40:40 ID:VmFwo7Rf
南北戦争がきっかけで国技になったらしい。
1960年代にはもう普及と言うから歴史あるよ。
日本も一高が横浜外人にボロ勝ちしたお陰で、
1890年代には相撲柔道剣道並に普及してたからな。
でも1870年代には普及してたカリブ海諸国には負ける。
>>44-45、
>>97-98を再整理。
1841(天保12)〜1843(天保14)日本で天保の改革
1845(弘化 2)カートライトが、現在の野球ルールの原型となった「ニッカーボッカー式ルール」 をまとめた。アメリカがテキサスを吸収。
1853(嘉永 6)浦賀にペリー襲来
1854(安政元)日米不平等条約
1857(安政 4)ニューヨーク近辺の諸クラブ(アマチュア)が集まってこのルールをもとに統一ルールを制定
1858(安政 5)全国野球人協会 (NAABP=National Association of Amateur Baseball Players)を結成
1858(安政 5)21点先取から9イニング制に移行、オーバーフェンスがホームランに。
・この時代の投手は、ルールにより全員がアンダースロー
・グラブの性能、グラウンドのコンディション等の要因により、エラーが今よりはるかに
多かったので、打者は転がすバッティングに専念していた。また、三振と四球が少なく、1試合あたりの投球数は現在と比べてずっと少なかった。
・バットが平面だったので、塁線ぎりぎりを狙うプレス・ヒット全盛。
・飛球はワンバウンドでアウト
1861(文久元)〜1865(慶応元)アメリカ南北戦争。
1867(慶応 3)大政奉還で戌辰戦争、アメリカがアラスカ買収。
1869(明治 2)最初のプロチーム、シンシナチ・レッドストッキングス発足
1871(明治 4)東部・中西部のプロクラブがNAPBP=National Association of
Professional Baseball Playersを設立してプロリーグを開始
・1シーズンの試合数は、60〜100試合程度。
1872(明治 5) 第一大学区第一番中学(のちの開成学校、現在の東京大学)のアメリカ人教師、
ホーレス・ウィルソンがベースボールを伝える。
1876(明治 9)〜1877(明治10)アメリカでインディアン(皆頃し)戦争
1876(明治 9)現在まで続くNational Leagueが誕生
・この年まで「フィールドに着地さえすれば全部フェア(つまり1・3塁腺の
ファウルゴロがフェアになる)」だった。
1876(明治 9)〜79(明治12)9ボールで出塁
1877(明治10)飛球はノーバウンド捕球のみアウト、1・3塁腺のファウルゴロが今と同じファウルに、日本は西南戦争。
1878(明治11)アメリカより帰国した平岡●(●=にすいに煕)が、わが国初の本格的野球チーム
「新橋アスレチック倶楽部」を結成。
1880(明治13)〜81(明治14)8ボールで出塁
1881(明治14)投手の投げる位置(当時はプレートはなく「ボックス」だった)が、それまで
の45フィート(13.72 m)から50フィート(15.24 m)に下げられる。(50フィートの距離
から投げた128キロのボールは、現在の60フィート6インチ(18.44 m)の位置から投げた144キロのボールに相当する。)
1882(明治15)〜83(明治16)7ボールで出塁
1883(明治16)投手のサイドスロー容認
1883(明治16)〜1884(明治17)19世紀メジャー只二人だけの黒人選手、モーゼス・フリートウッドとウェルディのウォーカー兄弟がトレド・ブルーストッキングスに在籍。
1884(明治17)〜85(明治18)6ボールで出塁
1885(明治18)投手のオーバースロー容認、サイ・ヤングをはじめとする速球派投手が活躍しはじめる。
1886(明治19)7ボールで出塁(この年までは、打者が投球の高低を指定できた)
1887(明治20)のみ「五球」出塁を安打に算入、Pete BrowningとTip O'nealが275安打
1887(明治20)〜88(明治21)5ボールで出塁
1888(明治21)平面バット禁止で、今と同じ曲面バットになる。
1889(明治22)以降、4ボールで出塁
1890(明治23)試合数が112試合に増え、また腕への負担が大きいオーバースローが普及したため、投手の負担が増した。
・一高(のち東大教養学部)が郁文館(旧制中学)、明治学院などを破り黄金時代開始
1893(明治26)、極端な投高打低を改善するため、50フィートの位置にあったピッチャーズボックスが
廃止され、投手は60フィート6インチ離れたプレートにいっぽうの足をつけて投げなければならなくなった。
・これにより一気に打高投低となり、投手の1試合あたり投球数も急増。リーグ打率はそれ以前より5分ほどアップし、多くの4割打者が出現。
1894(明治27)中馬庚(一高)がベースボールを「野球」と訳す。
1894(明治27)〜1895(明治28)日清戦争で日本勝利。
1895(明治28)台湾にベースボール伝来。
1896(明治29)第一高等学校が横浜外国人チームに29-4、32-5、22-7と勝利し、野球人気が全国的に高まる。
1898(明治31)アメリカがハワイ吸収、フィリピン植民地化。
105 :
104:2006/03/17(金) 12:35:12 ID:knrCJsO+
1901(明治34)NLが、それまではカウントしなかったファウルボールを、2ストライクになるまではストライクにカウントするルールへと変更。
・これにより、リーグ平均得点は0.66点下がった。三振の数が急増し、四球の数が減少。ALも2年後に同様のルール変更。
・1試合あたりの投球数の急増によりますます増大していた投手への負担を軽減するため、
エース投手に集中していた登板数を、数名の投手に分散させる戦法がとられるようになる。
1903(明治36)早慶戦が始まる。初戦は慶11-9早。
1904(明治37)〜1905(明治38)日露戦争で日本勝利。
1905(明治38)早大チームが初の米国遠征を行い、最新の野球技術を学んで帰国。
1906(明治39)応援の過熱により、早慶戦が中止となる。
1907(明治40)慶大が初めて外国チーム(ハワイ・セントルイス)を招待し、初の有料試合を行う。
1914(大正 3)〜1918(大正 7)第一次世界大戦。
1915(大正 4)全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園大会)が
参加73校、本大会出場10校で始まる。決勝は京都二中2(延長13回)1秋田中。
1917(大正 6)ブラックソックス事件、ロシア革命。
1918(大正 7)鈴鹿栄が少年野球用に軟式ボールを発明、ベーブルース(BRS)チーム15本塁打中11本、米騒動で全国中等野球大会中止。
・グラブの性能がアップし、グラウンドもきちんと整備されるようになったため、守備が改善される。
・ボールに異物をなすりつけたり、紙やすりで傷をつけたりする特殊な変化球(スピット ボール、マッドボール、スカッフボール等)が次々と開発される。
・これら、投手に有利な条件が揃っていたため、この時代の打者は長打を狙わずこつこつ当てていくバッティングが主流。
1919(大正 8)それまでの飛ばないボールにかわって、飛ぶボールが使われるようになる。また、試合中のボール交換も頻繁に行われるようになる。
そして、スピットボールをはじめとする特殊な変化球が禁止される。
・これにより、一気に安打数が増え、またボールが飛ぶようになったので長打も多くなった。ベーブ・ルース(BRS)が29本塁打。
1920(大正 9) 最初のプロチーム日本運動協会(芝浦協会)が誕生、ベーブルース(NYY)が54本塁打。
1923(大正12)最初のプロチーム同士の試合、芝浦(早稲田系)と天勝(慶応系)は1勝1敗。3戦目当日が関東大震災で中止。
1924(大正13)全国選抜中等学校野球大会(現在の春の甲子園大会)が出場8校で始まる。決勝は高松商2-0早実、甲子園球場完成。
1925(大正14)秋季より早慶戦が復活、東大の加盟により東京六大学リーグ戦始まる。
1926(大正15)明治神宮球場完成。
1927(昭和 2)都市対抗野球大会始まる。 決勝は満鉄4-1東京倶楽部
・特に1920年代には、それまでの長打を狙わず確実に当てていくバッティングが根強く残っていたため、4割近く打つ打者が数多く出現するようになる。
・日本でも和歌山中が4試合65点とか、渡辺大陸(明大)が12安打12四死球12奪三振で完投勝利とか馬鹿試合続出。
107 :
神様仏様名無し様:2006/03/32(土) 18:06:54 ID:KViqfYBQ
ほほー
108 :
神様仏様名無し様:2006/05/10(水) 17:55:32 ID:SskerTId
ageてみる
hoshu
今発売中の週刊ベースボールに昔のバットが載ってるが、
1900年頃のバットはクリケットのスティックの板を取っただけっぽいな。
1910年頃になると少しは今のバットぽくなるけど。
1700年代のイギリスで、
木の杭を倒すのがクリケット、
石の杭に当てるのがベース・ボールと呼ばれていたらしい。
112 :
神様仏様名無し様:2006/08/17(木) 18:30:42 ID:0Yj6IfH0
ゲーリッグは?
>>112 ゲーリッグは20世紀の選手なのでスレ違いだな
114 :
神様仏様名無し様:2006/08/17(木) 19:29:27 ID:GJLybH0z
イチローが迫っている「連続6年間での最多安打記録」の更新の
相手は19世紀から20世紀のプレーヤーだな。ウィリー・キーラー
とジェッシィー・ベケットの1313本と1301本だ。しかし、
誰だこんな暇な記録を「掘り出した奴」は?
>>114 そのあたりはマニアにはよく知られた名前なので、見当をつけて記録にあたれば
比較的簡単に発見できるよ
最初に発見したのが誰かは知らないが、私も独自に見つけたくらいだもの
日本でも19世紀には高校(旧制中等)野球やってたんだよなぁ。
今年優勝した早実は20世紀になってからだけど。