19世紀の大リーグを語れ

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1901(明治34)NLが、それまではカウントしなかったファウルボールを、2ストライクになるまではストライクにカウントするルールへと変更。
・これにより、リーグ平均得点は0.66点下がった。三振の数が急増し、四球の数が減少。ALも2年後に同様のルール変更。
・1試合あたりの投球数の急増によりますます増大していた投手への負担を軽減するため、
 エース投手に集中していた登板数を、数名の投手に分散させる戦法がとられるようになる。
1903(明治36)早慶戦が始まる。初戦は慶11-9早。
1904(明治37)〜1905(明治38)日露戦争で日本勝利。
1905(明治38)早大チームが初の米国遠征を行い、最新の野球技術を学んで帰国。
1906(明治39)応援の過熱により、早慶戦が中止となる。
1907(明治40)慶大が初めて外国チーム(ハワイ・セントルイス)を招待し、初の有料試合を行う。
1914(大正 3)〜1918(大正 7)第一次世界大戦。
1915(大正 4)全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園大会)が
       参加73校、本大会出場10校で始まる。決勝は京都二中2(延長13回)1秋田中。
1917(大正 6)ブラックソックス事件、ロシア革命。
1918(大正 7)鈴鹿栄が少年野球用に軟式ボールを発明、ベーブルース(BRS)チーム15本塁打中11本、米騒動で全国中等野球大会中止。
・グラブの性能がアップし、グラウンドもきちんと整備されるようになったため、守備が改善される。
・ボールに異物をなすりつけたり、紙やすりで傷をつけたりする特殊な変化球(スピット ボール、マッドボール、スカッフボール等)が次々と開発される。
・これら、投手に有利な条件が揃っていたため、この時代の打者は長打を狙わずこつこつ当てていくバッティングが主流。


1919(大正 8)それまでの飛ばないボールにかわって、飛ぶボールが使われるようになる。また、試合中のボール交換も頻繁に行われるようになる。
そして、スピットボールをはじめとする特殊な変化球が禁止される。
・これにより、一気に安打数が増え、またボールが飛ぶようになったので長打も多くなった。ベーブ・ルース(BRS)が29本塁打。
1920(大正 9) 最初のプロチーム日本運動協会(芝浦協会)が誕生、ベーブルース(NYY)が54本塁打。
1923(大正12)最初のプロチーム同士の試合、芝浦(早稲田系)と天勝(慶応系)は1勝1敗。3戦目当日が関東大震災で中止。
1924(大正13)全国選抜中等学校野球大会(現在の春の甲子園大会)が出場8校で始まる。決勝は高松商2-0早実、甲子園球場完成。
1925(大正14)秋季より早慶戦が復活、東大の加盟により東京六大学リーグ戦始まる。
1926(大正15)明治神宮球場完成。
1927(昭和 2)都市対抗野球大会始まる。 決勝は満鉄4-1東京倶楽部
・特に1920年代には、それまでの長打を狙わず確実に当てていくバッティングが根強く残っていたため、4割近く打つ打者が数多く出現するようになる。
・日本でも和歌山中が4試合65点とか、渡辺大陸(明大)が12安打12四死球12奪三振で完投勝利とか馬鹿試合続出。