1 :
1 :
04/05/09 15:10 ID:z4jUsbkx あの伝説的な記録が残る19世紀の大リーグを語れ
2 :
エンペラー名無しさん ◆hip5/i0e2. :04/05/09 15:11 ID:vjpyFRyL
2げと
3 :
神様仏様名無し様 :04/05/09 20:41 ID:L02LI73q
う〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん
4 :
神様仏様名無し様 :04/05/09 20:52 ID:EbW5tBDM
白人しかいなかった
5 :
神様仏様名無し様 :04/05/09 21:17 ID:0SHECwKD
6 :
神様仏様名無し様 :04/05/09 21:46 ID:TwszzF8a
19世紀って、 大リーグが何年から始まったということすら知らないんだけど・・・。
7 :
1 :04/05/09 22:18 ID:z4jUsbkx
なんかアレキサンダー・カートライトって人が創ったらしい。 日本が大政奉還やってた時、プロリーグはすでにあったと思う。確か
8 :
神様仏様名無し様 :04/05/09 22:36 ID:0SHECwKD
カートライトは野球規則をまとめた人ではなかったかな ナショナルアソシエーションの発足が1871年だから、大政奉還よりはちょっと後。 最初のプロチーム「レッドストッキングクラブ」はもう少し前からあったはずだな。
9 :
1 :04/05/09 22:53 ID:z4jUsbkx
>>8 スマソ。佐山和夫の本読んだだけでうる覚えだった
10 :
神様仏様名無し様 :04/05/09 23:15 ID:0SHECwKD
調べてみた カートライトが、現在の野球ルールの原型となった「ニッカーボッカー式ルール」 をまとめたのが1845年。1857年に、ニューヨーク近辺の諸クラブ(アマチュア)が 集まってこのルールをもとに統一ルールを制定し、翌1858年に全国野球人協会 (NAABP=National Association of Amateur Baseball Players)を結成した。 この組織が南北戦争後に全国規模に拡大されることになる。 最初のプロチーム、シンシナチ・レッドストッキングスの発足が1869年。 1871年に東部・中西部のプロクラブがNAPBP=National Association of Professional Baseball Playersを設立してプロリーグを開始、 1876年には現在まで続くNational Leagueが誕生している。 リーグ戦を開始
11 :
神様仏様名無し様 :04/05/09 23:16 ID:0SHECwKD
↑最後の1行は消し忘れ。 続きの話はまたあらためて
12 :
神様仏様名無し様 :04/05/09 23:32 ID:0SHECwKD
とりあえず、今回主として参考にしたのは、 渡辺融「近代ベースボールの成立」(東京大学公開講座44『スポーツ』所収)
渡辺氏によれば、ニッカーボッカー式ベースボールの原型になったのは、
18世紀イングランドで行なわれていた、木の杭をベースとして用いた球戯。
19世紀には同種の球戯が「ラウンダース」「フィーダー」など種々の名称で
イングランド各地で行なわれ、またアメリカでも「ベースボール」「タウンボール」
「ゴールボール」などの名称で行なわれるようになった、という。
ベースの数や走塁の方向、その他ルールの細部にわたってさまざまな差異
があったが、それを整理しまとめたのが
>>10 に言及したカートライトだった。
この種の球戯の、18世紀以前に遡る系譜について、ごく簡略に示すと スール(もしくはシュール):12世紀フランス ↓ ストゥールボール:14世紀イングランド →クリケット ↓ ベースボール
再び時代をくだって1869年、最初のプロチームとして名乗りをあげた シンシナティ・レッドストッキングスは、東海岸から西はカリフォルニアに 至る遠征を敢行、この間に130連勝を記録して「プロ」の力を誇示した という(「130連勝」には確実なソースはないらしい)。興行成績も上々で、 プロ組織設立への大きな刺激となった。 1871年に設立されたNational Associationは組織運営がルーズで、試合の スケジュール管理の不徹底や選手引きぬき、賭博師の跳梁など種々の 問題を招き、1875年を最後に解散、代わって翌1876年に設立されたのが、 現存二大リーグの一方であるNational Leagueであった。
16 :
神様仏様名無し様 :04/05/11 18:39 ID:Od6JAjtd
あげといたりなんかして
関心ある人、います?
18 :
神様仏様名無し様 :04/05/11 23:15 ID:zzZ0Ioca
・21点先取、イニング無制限 ・ピッチャーはアンダースローでバッターが 打ち頃の球を要求できた ・四球は「九球」 ・オーバーフェンスはシングルヒット このうち、1876年段階で生きていた ルールってどこまでなんだろう?
>>18 1876年時点では
×21点先取、イニング無制限
↑1858年から9イニング制に移行済み
○ピッチャーはアンダースローで
↑1883年にサイドスロー、1885年にオーバースロー容認
○バッターが打ち頃の球を要求できた
↑正確には「高い球」「低い球」のいずれかを要求できた(1886年まで)
△四球は「九球」
↑「九球出塁」は1875年にルール化されたらしい(それ以前は悪球出塁の
明確な規定なし)が、実際の適用は1879年との説も。現行の「四球」に
なったのは1889年。
?オーバーフェンスはシングルヒット
↑未確認
20 :
神様仏様名無し様 :04/05/11 23:36 ID:wME/tAUy
オーバフェンスはすべてファウルというのはフィンランド式野球に あったような気がする。
ショートが複数いたという説も・・・!?
>>21 「19世紀の前半には、ショートが2人、外野手が4人いた」と書かれたサイトを
見たことがあります。しかし、1845年の「ニッカーボッカー式ルール」では、既に
現在と同様、ショートストップ1人、外野手3人になっていたようです。
1845年以前は、各地でローカルルールによったゲームが行なわれていたよう
ですから、「そういうケースもあった」ということなのかもしれません。
↑今ひとつ、きちんとした調べがつきませんが
>>22 訂正
×1845年以前は、各地で・・・
○1858年のNAPBP結成以前は、各地で・・・
再訂正 ×1858年のNAPBP結成以前は、各地で・・・ ○1858年のNAABP結成以前は、各地で・・・
25 :
神様仏様名無し様 :04/06/29 23:32 ID:S8MfzdD+
>>22 なるほど。
昔はピッチャーVSバッターはバッター有利なルールだから、フィールダーを多くしてバランス取ったんでしょうね。
なんとなくクリケットが変化してベースボールになったと思ってたけど(クリケットをほとんど知らないのに)
共通の祖先から変化してベースボールとクリケットができたってことですか。
共通に祖先になったボールゲームはもう残ってないんでしょうか?
ドミニカにもボールを打つスポーツ(というか遊び)があって ドミニカンはこれが野球のルーツだと信じてやまないそうだ
27 :
神様仏様名無し様 :04/06/29 23:58 ID:QpEQEJBe
>>20 あってるよ。
>>22 その頃は1塁手は1塁にへばりつき、2塁手は2塁に、3塁手は3塁にくっついて
守っていた。
1塁と2塁の間にショートが1人。2塁と3塁の間にショートがもう1人。
守備位置も各塁よりずっと前でピッチャーより少し後ろくらい。
各塁手より前で球を捕る、止めるから「ショートストップ」。
今、1塁手が守備位置bRだが、ひところはこの名残でショートが3だった。
早稲田がはじめて一高に試合を申し込んだ時、なめきった一高は守備bフ順番に
一番から投・捕・遊・一・二・三・左・中・右の打順で臨んだ逸話がある。
遊撃2人の頃外野はライン際に一人ずつと今の右中間・左中間ややセンターよりに
一人ずつの計4人いた。
ベースにへばりついて守ってたのは、1876年(ナショナルリーグ初年) までは「フィールドに着地さえすれば全部フェア(つまり1・3塁腺の ファウルゴロがフェアになる)」だったのと関係アリかと。類推ですが。
>>5 遅レスだが、19世紀の黒人大リーガーはひとりだけ存在した。
1883年、ノースウエスタンリーグのトレド球団に、フリート・ウォーカーという
黒人捕手が入団。そして、この球団が、翌年「トレド・ブルーストッキングス」と名前を変え、
アメリカン・アソシエーション(当時の大リーグ組織)に「一年だけ」加盟した。
このため、少々変則的な形で「黒人メジャー第一号」が誕生した。
ちなみに、当時はミット・プロテクター等の各種道具が全くなかったため、どこの球団でも
捕手陣は故障に次ぐ故障の毎日で、投手より捕手の方が登録人数が多い、という
ケースもあったという。 コワイヨー、ガクガクブルブル・・・
>>30 というところへ無粋な突っ込みで恐縮だが・・・・
おっしゃるのはモーゼス・フリートウッド・ウォーカーのことと拝察するが、
彼が在籍したトレド・ブルーストッキングスがアメリカン・アソシエーションに
参加した1884年、モーゼスの弟のウェルディ・ウォーカー(外野手)も
同球団に入団している。いろいろ嫌がらせなどあって、モーゼスは42試合、
ウェルディは5試合の出場にとどまり、またこの年限りでの退団を余儀なく
されたが、19世紀の黒人大リーガーは「ふたりだけ」存在した、というわけだ。
32 :
30 :04/08/16 16:09 ID:Iu5f+nkW
>>31 丁寧にご指摘ありがとうございます。弟がいた話は初めて知りました。
勉強になりますね。
33 :
神様仏様名無し様 :04/09/02 07:30 ID:0Bzyiz8Z
昔の大リーグではどうしてあんなに4割打者が出たのですか?
34 :
神様仏様名無し様 :04/09/02 12:29 ID:9uny/1em
1 ストレートとカーブくらいしか球種がない 2 一部の豪腕投手をのぞけばせいぜい120〜130kmくらいの球速 3 守備陣がザル 4 一時期、四球もヒットとしてカウントしてた時期がある
35 :
ナポレオンラジョイ :04/09/02 13:40 ID:ctypn5Dv
これはカッブとか他の選手も見とめてたやつがいたがスライダーができチェンジアップができフォークができたから 4割打者はもう出ないだろうと。
36 :
神様仏様名無し様 :04/09/02 23:49 ID:l9CO1lc+
>>34-35 そうなのか。ありがとう。
ということは最後の4割打者、テッド・ウィリアムスは偉大なんだね。
>>34 > 4 一時期、四球もヒットとしてカウントしてた時期がある
1887年の1年限り、Bases on Balls を Hit として記録していたことを指して
このようにいわれることがままあるが、この年は「四球」ではなく「五球出塁」
だったので、実は正確な表現ではない。
現在のように「四球出塁」になったのは1889年のこと。
テッドのプレーを実際に見たことあるのは この中では俺だけかな?
>>26 詳しく知りたいのは漏れだけ?
スレ違いかもしれないが、教えて欲しいんだけど。
今日、見つけたスレなんで亀レスごぬん。
40 :
神様仏様名無し様 :04/09/23 23:55:34 ID:t8vXwIgb
41 :
神様仏様名無し様 :04/10/15 12:55:38 ID:leU2FdYF
スライダーの出現が すべての右打者の打率を1分さげた なんていわれたしね。 (ウロ覚えなんでちがってたらスマソ)
42 :
神様仏様名無し様 :04/10/15 13:56:54 ID:rRR46GKf
イチローの後半戦の成績が 333打数143安打 .429だから、 前半戦を167打数57安打の.341ペースでいけば 500打数200安打でちょうど400に到達する。 イチローなら簡単にできそうに見える。
43 :
26 :04/10/15 14:35:53 ID:NJ+SV65N
>>39 俺も凄い遅レスで且つろくな情報が無いが。
野球雑誌のドミニカ特集みたいなページで
1行ぐらい書いてあっただけだから俺も詳しくわからん。
クリケットやラウンダーズよりも野球に近いルールとかいうことが書いてあった。
まあ個人的には野球が子供向けのルールでドミニカの子供に遊びとして定着した
ってのが真相じゃないかと思うが
>>33 >>34 ルール・状況の変遷に応じて、「昔」というのが具体的にどの年代なのかを区別する
必要があるかと。
▼1883年以前
・この時代の投手は、ルールにより全員がアンダースロー
・1881年、投手の投げる位置(当時はプレートはなく「ボックス」だった)が、それまで
の45フィート(13.72 m)から50フィート(15.24 m)に下げられる。(50フィートの距離
から投げた128キロのボールは、現在の60フィート6インチ(18.44 m)の位置から投
げた144キロのボールに相当する。)
・グラブの性能、グラウンドのコンディション等の要因により、エラーが今よりはるかに
多かったので、打者は転がすバッティングに専念していた。また、三振と四球が少なく、
1試合あたりの投球数は現在と比べてずっと少なかった。
・1シーズンの試合数は、60〜100試合程度
▼1884年〜1892年
・ルール改正により、投球に関するすべての制限がとりはずされ、オーバースロー
の投手が出現。サイ・ヤングをはじめとする速球派投手が活躍しはじめる。
・試合数が112試合に増え、また腕への負担が大きいオーバースローが普及した
ため、投手の負担が増した。
▼1893年〜1900年
・1893年、極端な投高打低を改善するため、50フィートの位置にあったピッチャーズ
ボックスが廃止され、投手は60フィート6インチ離れたプレートにいっぽうの足をつけ
て投げなければならなくなった。
・これにより一気に打高投低となり、投手の1試合あたり投球数も急増。リーグ打率は
それ以前より3割5分ほどアップし、多くの4割打者が出現。
▼1901年〜1919年
・1901年、NLが、それまではカウントしなかったファウルボールを、2ストライクになるま
ではストライクにカウントするルールへと変更。これにより、リーグ平均得点は0.66点下
がった。三振の数が急増し、四球の数が減少。ALも2年後に同様のルール変更。
・1試合あたりの投球数の急増によりますます増大していた投手への負担を軽減する
ため、エース投手に集中していた登板数を、数名の投手に分散させる戦法がとられる
ようになる。
・グラブの性能がアップし、グラウンドもきちんと整備されるようになったため、守備が
改善される。
・ボールに異物をなすりつけたり、紙やすりで傷をつけたりする特殊な変化球(スピット
ボール、マッドボール、スカッフボール等)が次々と開発される。
・これら、投手に有利な条件が揃っていたため、この時代の打者は長打を狙わずこつこつ
当てていくバッティングが主流。
▼1920年〜
・それまでの飛ばないボールにかわって、飛ぶボールが使われるようになる。また、試
合中のボール交換も頻繁に行われるようになる。
・スピットボールをはじめとする特殊な変化球が禁止される。
・これにより、一気に安打数が増え、またボールが飛ぶようになったので長打も多くなった。
・特に1920年代には、それまでの長打を狙わず確実に当てていくバッティングが根強く残って
いたため、4割近く打つ打者が数多く出現するようになる。
悪球累積による出塁の規定にも、ずいぶんと変遷があります 1876〜79年 9ボールで出塁 1880〜81年 8ボールで出塁 1882〜83年 7ボールで出塁 1884〜85年 6ボールで出塁 1886年 7ボールで出塁(この年までは、打者が投球の高低を指定できた) 1887〜88年 5ボールで出塁(1887年に限っては「五球」出塁を安打に算入) 1889年〜 4ボールで出塁
ho
47 :
神様仏様名無し様 :04/12/27 07:29:35 ID:tDbkWOoL
>>45 まさにその1887年にPete BrowningとTip O'nealが275安打してるわけなんだが、
これってやっぱりBB(五球)も含まれてるんかね。
48 :
神様仏様名無し様 :04/12/27 09:07:26 ID:c/QIjRem
>>47 そういうこと
この年、O'Neallは225安打50五球、Browningは220安打55五球を記録しているので、
当時の基準ではいずれも275安打になる
イチローがシーズン安打記録を目前にしていたころ、 新記録を達成して喜ぶイチローの背後に忍び寄る黒い影・・・ 「ちょっと待ちな、俺の記録を忘れちゃあいねぇか?」 「だ、誰だ!?」 「ふっふっふ・・・・、俺の名はオニール」 さらに別の方向から 「俺のことも忘れちゃあ困るな」 「な、なんだと?」 「俺だよ、ピートと呼んでもらおうか」 (以下略) というネタを、総合板で見かけたことがあるなあ
50 :
神様仏様名無し様 :05/01/10 03:00:32 ID:IfsI+ZLc
51 :
神様仏様名無し様 :05/01/10 03:19:01 ID:IfsI+ZLc
52 :
神様仏様名無し様 :05/01/18 10:09:06 ID:vsDUiwBo
gae
53 :
神様仏様名無し様 :05/02/24 02:30:37 ID:4ZZHc6FP
シンシナティ・レッドスキンズの直系の子孫がシンシナティ・レッズですか?
55 :
神様仏様名無し様 :05/02/24 15:12:45 ID:VEIMjyX2
>>54 ありがとうございました。「レッドスキンズ」で検索していたので、資料が見つかりませんでした・・・・
レッドスキンズはNFLですな。
58 :
ぽかぽか :2005/04/16(土) 07:37:44 ID:LMm98NIF
野球ルールに嵌って佐山和夫氏や中村敏雄氏のご著作を 読んでいるんですが、ひとつ解らないことがあります。 犠牲フライルールは、いつ誰が考案したのでしょうか? このルールを、よく考えたなと思いまして
犠飛のルールは20世紀に入ってからのものだと思われます 日本のプロ野球でも 1936年〜1939年4月 犠牲フライルール適用されず 1939年5月〜1940年 犠牲フライルール適用(ファウル飛球除く) 1941年〜1953年 犠牲フライルール適用されず 1954年〜1960年 犠牲フライルール適用(ファウル飛球除く) 1961年以降 犠牲フライルール適用(ファウル飛球含む) という変遷を辿る訳です なので例えば川上哲治さんの通算打率は.313なんですが現行のルールに直すと.316になる 訳です
蛇足ですがベーブ・ルースはある試合で同点9回裏満塁でサヨナラホームランを打った・・・・ ところが記録上はシングルヒットとなってしまいました 別に2塁ベースを踏み忘れた訳でも去年の新庄みたいに走者を追い越した訳でもありません 理由は当時はサヨナラのランナー(この場合は三塁ランナーになりますね)が生還した時点で ゲームセットとなるルールだったからです だからベーブ・ルースはシングルヒットで1打点という事なのです この事からも分かる様に20世紀に入ってからも少しずつですがルールは変わって来ていた訳 です
61 :
1 :2005/04/25(月) 12:17:45 ID:6i4N7Fgb
一年で60レスってある意味すごいよなあ・・・・。
62 :
神様仏様名無し様 :2005/04/25(月) 12:53:01 ID:UKNTN0co
>>60 というかそのルールでもいいと思うんだけどなあ…。
良スレ
勉強になります。
>>58 野球(のルール)の歴史だったら、渡辺融先生もお忘れなく
>>44 この年表を見てみると、改めてルースの神っぷりがよくわかるね。
1920年にHR54本なんて、今でいえば「HR100本」みたいな感じの想像を絶するような数字だったんだろうね。
68 :
44 :2005/06/07(火) 23:39:26 ID:Bv8kCT6l
>>44 ですが、ちょっと間違ってたみたいです。
飛ぶボールになったのは1920年からではなく、1919年からというのが正しいようです。
まさしくその1919年に、ルースが投手を兼ねつつ新記録となる29本塁打を 放ったわけですね
70 :
44 :2005/06/08(水) 18:40:37 ID:ssDvEOQS
>>69 ですね。
ルースは20年にヤンキースに移り54本のHRを打ったため、この年がライブボール元年
だという錯覚が広まってしまったようなのですが、これは所属チームの本拠地球場の
差による錯覚だったようです。
ルースは19年にも29本打ってますが、当時のフェンウェイパークはリーグで最もHRが
出にくい球場だったようで、29本のうち、本拠地で放ったHRはわずかに9本にとどまっています。
(ちなみにこの年、相手チームがフェンウェイパークで放ったHRは合計でたったの3本)
一方、当時のヤンキースの本拠地であるポロ・グラウンドは、逆に最もHRの出やすい球場
で、この違いがルースの20年のHR数急増につながっているようです。
クレイグ・ライトの計算によると、19年のルースが平均的な球場を本拠地とするチーム
に所属していたと仮定すると、41本打っていたことになるそうです。また、ポロ・グラウンド
を本拠地にしていたと仮定すると、55本打っていたペースに相当するとのことです。
ttp://www.baseball-reference.com/teams/BOS/1919.shtml ↑19年のボストンのチーム成績をみてみると、チーム全体のHR数33本のうち29本を
ルースが打っており、驚かされます。
>>71 余計なお世話かもしれないが補筆
「ボストンの全15HR中」ね
ムハー
74 :
神様仏様名無し様 :2005/07/16(土) 19:04:28 ID:JZ8GDYtv
プ、プ、プギャープギャプギャプ♪ \ ププププギャプギャププギャプギャ/ ♪ (^Д^) ♪ _m9 )>_ キュッキュ♪ /.◎。/◎。/| | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
75 :
神様仏様名無し様 :2005/07/17(日) 00:18:18 ID:nTgISt/5
昔の大リーグなんて伝説としか思えないな
保守
アゲ
誰も関心が無い&知らないので語れない
79 :
神様仏様名無し様 :2005/10/10(月) 14:04:56 ID:hrS59iHB
向こうのコアな野球掲示板ならいろんな話聞けそうだが・・・ もう文化史の領域だな、こりゃ
>>1-79 全員ニワカ
逝ってよし!
プップクプー♪
多少興味もあるから色々調べているけど、打点や盗塁の記録が何年も抜けていたりルールも かなり違っていたりと......... 例えば1884年の投手の勝ち星が ラドボーン(プロビデンス)75試合 60勝12敗 679イニング 1.38 を筆頭に40勝台が2人、30勝台が2人と............. 今の野球と似て非なるスポーツと考えた方が良いくらいだな
82 :
神様仏様名無し様 :2005/10/22(土) 01:40:51 ID:aesHGcN3
ラドボーン59勝なのか60勝なのかどっちなんだろ
>>82 色々見解はある様ですけど......
ただラドボーンを60勝としている資料によると彼の通算が311勝となっているのに
対して、MLBの公式HPによると通算が309勝とあります(1884年シーズンの勝ち
星についての記述は見つからなかった)のでMLBとしてはどうやら59勝の見解をと
っている様ですね
ラドボーンはオーバースローが解禁になって以降もアンダースローで通した投手で
1884年のシーズンは大きなカーブ(当時カーブ自体を投げる投手はごく少数だっ
た)を武器に勝ちまくった様ですね
尚この年はシカゴのウィリアムソンが27本塁打という当時の「アンタッチャブル」
と言うべき記録(この記録は1919年にベーブ・ルース(レッドソックス)が29本
塁打を樹立するまで破られなかった)を作ったのですが、実は当時シカゴが本拠地
としたクラッカーボックスフィールドは両翼70m中堅100m(で合っていましたか
ね?)の文字通りの「箱庭」球場で、そんな状況で樹立した記録の様です
実際、この年のシカゴはチーム本塁打が142本と2位のバッファロー(39本塁打)
に103本もの差を付けてトップで本塁打も上位4人にシカゴの選手が20本台で並び
(他にシカゴは10本台が1人居た)それに次ぐのが14本塁打(それでもシカゴ以外
ではただ1人の2ケタ)という状況でした
一事不再理の立場と記録を追跡して誤りがあれば正す立場の違いでしょうね。 私はどちらかというと一事不再理の立場で59勝を支持するが トータルベースボールなんかは徹底的に記録を再検証する立場のようですね CBフィールドもパークファクター5の世にも珍しい球場として 取り上げられていますね。
>>83 あと、こまかいことながら‥‥
1884年のホームランについて、シカゴ以外で2桁打ったのはシンシナティの
ジョン・レイリーという選手のようですが、MLBのサイトでは「11本」としています
また、同年のチーム本塁打、シカゴの142本につぐのは、同サイトの記録では
36本のボストンとシンシナティとなっております
86にはいろいろと事実誤認がありました。撤回します
>>81 ルールが大きく違う以上、異なるスポーツとして考える方が自然だと思いますよ。
90 :
83 :2005/10/23(日) 22:33:32 ID:0sUIlXmO
>>89 そこまで狭かったのですか!!
さすがに驚きです
19世紀でこのホームラン記録に一番接近したのが1899年のバック・フリーマン(ワシントン)
の25本です
1990年米西戦争の影響でワシントン解散後はボストン(現ブレーブス)、翌年には結成された
ばかりのア・リーグの方のボストン(現レッドソックス)に移り、1902・1903の2年連続打点
トップ、1903年には13本で本塁打トップと19世紀末から20世紀初頭を代表する強打者として
活躍した様です
この19世紀末から20世紀初頭にかけての時期も比較的本塁打が増えている様にも見受けられま
すが、この辺の事情は一体どうだったのでしょうか?
1894年にバッテリー間の距離が延長されてる。
>>90 ピッツバーグが1891年から1909年まで本拠地としていた
Exposition Parkは両翼122m、センター137mだったそうですから、
その差に愕然としますね。
93 :
神様仏様名無し様 :2005/11/27(日) 02:21:18 ID:s+EU85zW
45 名前: 世界の大量得点差試合 投稿日: 02/01/27 16:27 ID:??? 野球の本場、アメリカでの記録 ◎バファロー倶楽部VSコロンブス 209-10 (1869年) ◎アスレチックスVSダンフル 162-11 (1865年) ◎シカゴVSメンフィス 151-1 (1870年) 現在とは多少ルールがちがうだろうから、単純には比較 できないが、負けたほうがずいぶんとめげたのは一緒だろう(w
95 :
神様仏様名無し様 :2005/12/05(月) 16:28:12 ID:KgF8SMeR
か
ほっしゃん
>>44-45 を日本の状況も入れて再整理。
▼1883(明治16)年以前
1872(明治5) 第一大学区第一番中学(のちの開成学校、現在の東京大学)のアメリカ人教師、
ホーレス・ウィルソンがベースボールを伝える。
1878(明治11)アメリカより帰国した平岡●(●=にすいに煕)が、わが国初の本格的野球チーム
「新橋アスレチック倶楽部」を結成。
・この時代の投手は、ルールにより全員がアンダースロー
・1881年、投手の投げる位置(当時はプレートはなく「ボックス」だった)が、それまで
の45フィート(13.72 m)から50フィート(15.24 m)に下げられる。(50フィートの距離
から投げた128キロのボールは、現在の60フィート6インチ(18.44 m)の位置から投げた144キロのボールに相当する。)
・グラブの性能、グラウンドのコンディション等の要因により、エラーが今よりはるかに
多かったので、打者は転がすバッティングに専念していた。また、三振と四球が少なく、1試合あたりの投球数は現在と比べてずっと少なかった。
・1シーズンの試合数は、60〜100試合程度。
・バットが平面だったので、塁線ぎりぎりを狙うプレス・ヒット全盛。
・1876〜79年9ボールで出塁、1880〜81年8ボールで出塁、1882〜83年7ボールで出塁
▼1884(明治17)年〜1892(明治25)年
一高(のち東大教育学部)が郁文館(旧制中学)、明治学院などを破り黄金時代開始
・バットが今と同じ曲面になる。
・ルール改正により、投球に関するすべての制限がとりはずされ、オーバースローの投手が出現。サイ・ヤングをはじめとする速球派投手が活躍しはじめる。
・試合数が112試合に増え、また腕への負担が大きいオーバースローが普及したため、投手の負担が増した。
・1884〜85年6ボールで出塁、1886年7ボールで出塁(この年までは、打者が投球の高低を指定できた)
1887〜88年5ボールで出塁(1887年に限っては「五球」出塁を安打に算入)、1889年〜4ボールで出塁
▼1893(明治26)年〜1900(明治33)年
1894(明治27)中馬庚(一高)がベースボールを「野球」と訳す。
1896(明治29)第一高等学校が横浜外国人チームに29-4、32-5、22-7と勝利し、野球人気が全国的に高まる。
・1893年、極端な投高打低を改善するため、50フィートの位置にあったピッチャーズボックスが
廃止され、投手は60フィート6インチ離れたプレートにいっぽうの足をつけて投げなければならなくなった。
・これにより一気に打高投低となり、投手の1試合あたり投球数も急増。リーグ打率は
それ以前より3割5分ほどアップし、多くの4割打者が出現。
98 :
97 :2005/12/25(日) 14:44:48 ID:Y6dKNlRi
▼1901(明治36)年〜1918(大正7)年 1903(明治36)早慶戦が始まる。初戦は慶11-9早。 1905(明治38)早大チームが初の米国遠征を行い、最新の野球技術を学んで帰国。 1906(明治39)応援の過熱により、早慶戦が中止となる。 1907(明治40)慶大が初めて外国チーム(ハワイ・セントルイス)を招待し、初の有料試合を行う。 1915(大正 4)全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園大会)が 参加73校、本大会出場10校で始まる。決勝は京都二中2(延長13回)1秋田中。 1918(大正 7)鈴鹿栄が少年野球用に軟式ボールを発明した ・1901年、NLが、それまではカウントしなかったファウルボールを、2ストライクになるまではストライクにカウントするルールへと変更。 これにより、リーグ平均得点は0.66点下がった。三振の数が急増し、四球の数が減少。ALも2年後に同様のルール変更。 ・1試合あたりの投球数の急増によりますます増大していた投手への負担を軽減するため、 エース投手に集中していた登板数を、数名の投手に分散させる戦法がとられるようになる。 ・グラブの性能がアップし、グラウンドもきちんと整備されるようになったため、守備が改善される。 ・ボールに異物をなすりつけたり、紙やすりで傷をつけたりする特殊な変化球(スピット ボール、マッドボール、スカッフボール等)が次々と開発される。 ・これら、投手に有利な条件が揃っていたため、この時代の打者は長打を狙わずこつこつ当てていくバッティングが主流。 ▼1919(大正8)年〜 1920(大正9) 最初のプロチーム日本運動協会(芝浦協会)が誕生。 1923(大正12)最初のプロチーム同士の試合、芝浦(早稲田系)と天勝(慶応系)は1勝1敗。3戦目当日が関東大震災で中止。 1924(大正13)全国選抜中等学校野球大会(現在の春の甲子園大会)が出場8校で始まる。決勝は高松商2-0早実 甲子園球場完成。 1925(大正14)秋季より早慶戦が復活、東大の加盟により東京六大学リーグ戦始まる。 1926(大正15)明治神宮球場完成。 1927(昭和 2)都市対抗野球大会始まる。 ・それまでの飛ばないボールにかわって、飛ぶボールが使われるようになる。また、試合中のボール交換も頻繁に行われるようになる。 ・スピットボールをはじめとする特殊な変化球が禁止される。 ・これにより、一気に安打数が増え、またボールが飛ぶようになったので長打も多くなった。 ・特に1920年代には、それまでの長打を狙わず確実に当てていくバッティングが根強く残っていたため、4割近く打つ打者が数多く出現するようになる。 ・日本でも和歌山中が4試合65点とか、渡辺大陸(明大)が12安打12四死球12奪三振で完投
>>97 細かいことだけど
> 一高(のちの東大教育学部)
というところ、教養学部の間違いね
最終行の「それ以前より3割5分ほどアップし」も、何かの間違いかと
100 :
神様仏様名無し様 :2006/01/29(日) 12:12:57 ID:29XZ0EOD
ヒストリーチャンネルでやってる番組面白いな
101 :
神様仏様名無し様 :2006/02/09(木) 15:32:09 ID:D4CIjy9Y
19世紀末には、大リーグに勝てる大学チームは無かったらしい。 イギリスのサッカーが、20世紀になってもFA杯で優勝する大学チームがあったのとは対照的。
102 :
神様仏様名無し様 :2006/02/14(火) 09:40:40 ID:VmFwo7Rf
南北戦争がきっかけで国技になったらしい。 1960年代にはもう普及と言うから歴史あるよ。
日本も一高が横浜外人にボロ勝ちしたお陰で、 1890年代には相撲柔道剣道並に普及してたからな。 でも1870年代には普及してたカリブ海諸国には負ける。
>>44-45 、
>>97-98 を再整理。
1841(天保12)〜1843(天保14)日本で天保の改革
1845(弘化 2)カートライトが、現在の野球ルールの原型となった「ニッカーボッカー式ルール」 をまとめた。アメリカがテキサスを吸収。
1853(嘉永 6)浦賀にペリー襲来
1854(安政元)日米不平等条約
1857(安政 4)ニューヨーク近辺の諸クラブ(アマチュア)が集まってこのルールをもとに統一ルールを制定
1858(安政 5)全国野球人協会 (NAABP=National Association of Amateur Baseball Players)を結成
1858(安政 5)21点先取から9イニング制に移行、オーバーフェンスがホームランに。
・この時代の投手は、ルールにより全員がアンダースロー
・グラブの性能、グラウンドのコンディション等の要因により、エラーが今よりはるかに
多かったので、打者は転がすバッティングに専念していた。また、三振と四球が少なく、1試合あたりの投球数は現在と比べてずっと少なかった。
・バットが平面だったので、塁線ぎりぎりを狙うプレス・ヒット全盛。
・飛球はワンバウンドでアウト
1861(文久元)〜1865(慶応元)アメリカ南北戦争。
1867(慶応 3)大政奉還で戌辰戦争、アメリカがアラスカ買収。
1869(明治 2)最初のプロチーム、シンシナチ・レッドストッキングス発足
1871(明治 4)東部・中西部のプロクラブがNAPBP=National Association of
Professional Baseball Playersを設立してプロリーグを開始
・1シーズンの試合数は、60〜100試合程度。
1872(明治 5) 第一大学区第一番中学(のちの開成学校、現在の東京大学)のアメリカ人教師、
ホーレス・ウィルソンがベースボールを伝える。
1876(明治 9)〜1877(明治10)アメリカでインディアン(皆頃し)戦争
1876(明治 9)現在まで続くNational Leagueが誕生
・この年まで「フィールドに着地さえすれば全部フェア(つまり1・3塁腺の
ファウルゴロがフェアになる)」だった。
1876(明治 9)〜79(明治12)9ボールで出塁
1877(明治10)飛球はノーバウンド捕球のみアウト、1・3塁腺のファウルゴロが今と同じファウルに、日本は西南戦争。
1878(明治11)アメリカより帰国した平岡●(●=にすいに煕)が、わが国初の本格的野球チーム
「新橋アスレチック倶楽部」を結成。
1880(明治13)〜81(明治14)8ボールで出塁
1881(明治14)投手の投げる位置(当時はプレートはなく「ボックス」だった)が、それまで
の45フィート(13.72 m)から50フィート(15.24 m)に下げられる。(50フィートの距離
から投げた128キロのボールは、現在の60フィート6インチ(18.44 m)の位置から投げた144キロのボールに相当する。)
1882(明治15)〜83(明治16)7ボールで出塁
1883(明治16)投手のサイドスロー容認
1883(明治16)〜1884(明治17)19世紀メジャー只二人だけの黒人選手、モーゼス・フリートウッドとウェルディのウォーカー兄弟がトレド・ブルーストッキングスに在籍。
1884(明治17)〜85(明治18)6ボールで出塁
1885(明治18)投手のオーバースロー容認、サイ・ヤングをはじめとする速球派投手が活躍しはじめる。
1886(明治19)7ボールで出塁(この年までは、打者が投球の高低を指定できた)
1887(明治20)のみ「五球」出塁を安打に算入、Pete BrowningとTip O'nealが275安打
1887(明治20)〜88(明治21)5ボールで出塁
1888(明治21)平面バット禁止で、今と同じ曲面バットになる。
1889(明治22)以降、4ボールで出塁
1890(明治23)試合数が112試合に増え、また腕への負担が大きいオーバースローが普及したため、投手の負担が増した。
・一高(のち東大教養学部)が郁文館(旧制中学)、明治学院などを破り黄金時代開始
1893(明治26)、極端な投高打低を改善するため、50フィートの位置にあったピッチャーズボックスが
廃止され、投手は60フィート6インチ離れたプレートにいっぽうの足をつけて投げなければならなくなった。
・これにより一気に打高投低となり、投手の1試合あたり投球数も急増。リーグ打率はそれ以前より5分ほどアップし、多くの4割打者が出現。
1894(明治27)中馬庚(一高)がベースボールを「野球」と訳す。
1894(明治27)〜1895(明治28)日清戦争で日本勝利。
1895(明治28)台湾にベースボール伝来。
1896(明治29)第一高等学校が横浜外国人チームに29-4、32-5、22-7と勝利し、野球人気が全国的に高まる。
1898(明治31)アメリカがハワイ吸収、フィリピン植民地化。
105 :
104 :2006/03/17(金) 12:35:12 ID:knrCJsO+
1901(明治34)NLが、それまではカウントしなかったファウルボールを、2ストライクになるまではストライクにカウントするルールへと変更。 ・これにより、リーグ平均得点は0.66点下がった。三振の数が急増し、四球の数が減少。ALも2年後に同様のルール変更。 ・1試合あたりの投球数の急増によりますます増大していた投手への負担を軽減するため、 エース投手に集中していた登板数を、数名の投手に分散させる戦法がとられるようになる。 1903(明治36)早慶戦が始まる。初戦は慶11-9早。 1904(明治37)〜1905(明治38)日露戦争で日本勝利。 1905(明治38)早大チームが初の米国遠征を行い、最新の野球技術を学んで帰国。 1906(明治39)応援の過熱により、早慶戦が中止となる。 1907(明治40)慶大が初めて外国チーム(ハワイ・セントルイス)を招待し、初の有料試合を行う。 1914(大正 3)〜1918(大正 7)第一次世界大戦。 1915(大正 4)全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園大会)が 参加73校、本大会出場10校で始まる。決勝は京都二中2(延長13回)1秋田中。 1917(大正 6)ブラックソックス事件、ロシア革命。 1918(大正 7)鈴鹿栄が少年野球用に軟式ボールを発明、ベーブルース(BRS)チーム15本塁打中11本、米騒動で全国中等野球大会中止。 ・グラブの性能がアップし、グラウンドもきちんと整備されるようになったため、守備が改善される。 ・ボールに異物をなすりつけたり、紙やすりで傷をつけたりする特殊な変化球(スピット ボール、マッドボール、スカッフボール等)が次々と開発される。 ・これら、投手に有利な条件が揃っていたため、この時代の打者は長打を狙わずこつこつ当てていくバッティングが主流。 1919(大正 8)それまでの飛ばないボールにかわって、飛ぶボールが使われるようになる。また、試合中のボール交換も頻繁に行われるようになる。 そして、スピットボールをはじめとする特殊な変化球が禁止される。 ・これにより、一気に安打数が増え、またボールが飛ぶようになったので長打も多くなった。ベーブ・ルース(BRS)が29本塁打。 1920(大正 9) 最初のプロチーム日本運動協会(芝浦協会)が誕生、ベーブルース(NYY)が54本塁打。 1923(大正12)最初のプロチーム同士の試合、芝浦(早稲田系)と天勝(慶応系)は1勝1敗。3戦目当日が関東大震災で中止。 1924(大正13)全国選抜中等学校野球大会(現在の春の甲子園大会)が出場8校で始まる。決勝は高松商2-0早実、甲子園球場完成。 1925(大正14)秋季より早慶戦が復活、東大の加盟により東京六大学リーグ戦始まる。 1926(大正15)明治神宮球場完成。 1927(昭和 2)都市対抗野球大会始まる。 決勝は満鉄4-1東京倶楽部 ・特に1920年代には、それまでの長打を狙わず確実に当てていくバッティングが根強く残っていたため、4割近く打つ打者が数多く出現するようになる。 ・日本でも和歌山中が4試合65点とか、渡辺大陸(明大)が12安打12四死球12奪三振で完投勝利とか馬鹿試合続出。
107 :
神様仏様名無し様 :2006/03/32(土) 18:06:54 ID:KViqfYBQ
ほほー
108 :
神様仏様名無し様 :2006/05/10(水) 17:55:32 ID:SskerTId
ageてみる
hoshu
今発売中の週刊ベースボールに昔のバットが載ってるが、 1900年頃のバットはクリケットのスティックの板を取っただけっぽいな。 1910年頃になると少しは今のバットぽくなるけど。
1700年代のイギリスで、 木の杭を倒すのがクリケット、 石の杭に当てるのがベース・ボールと呼ばれていたらしい。
112 :
神様仏様名無し様 :2006/08/17(木) 18:30:42 ID:0Yj6IfH0
ゲーリッグは?
>>112 ゲーリッグは20世紀の選手なのでスレ違いだな
114 :
神様仏様名無し様 :2006/08/17(木) 19:29:27 ID:GJLybH0z
イチローが迫っている「連続6年間での最多安打記録」の更新の 相手は19世紀から20世紀のプレーヤーだな。ウィリー・キーラー とジェッシィー・ベケットの1313本と1301本だ。しかし、 誰だこんな暇な記録を「掘り出した奴」は?
>>114 そのあたりはマニアにはよく知られた名前なので、見当をつけて記録にあたれば
比較的簡単に発見できるよ
最初に発見したのが誰かは知らないが、私も独自に見つけたくらいだもの
日本でも19世紀には高校(旧制中等)野球やってたんだよなぁ。 今年優勝した早実は20世紀になってからだけど。