私は1981年の秋、ライオンズの監督就任が決定した数日後から、
秋季、冬季の自主トレーニングに立ちあった。マスコミは「広岡流の
管理野球が始まった。」などと喧伝した。ヤクルト時代の年中無休の
イメージを重ね合わせて、そう思い込んだらしい。しかし、私はその時
正確に言えば、まだライオンズの監督ではなかった。契約書に調印は
したが、その契約書によれば、私の契約は1982年1月1日から発行す
ることになっていたのだ。契約時の話し合いで「それ以前の秋季練習など
を視察するのは拒まないけれど、それに対する報酬は支払われない。」と
なっていたし、根本陸夫前監督の「まあ、のんびりして、来季になってから
ボチボチやってくれよ。」という話に、私も、「そうさせていただきましょう。」と
答えたものである。ところが数日後、私と共に入団が決まった森昌彦、
近藤昭仁両コーチらと雑談中、誰からともなく、こんな話が出た。「せっかく
秋季練習をやっているんだから、ちょっとのぞいて見ませんか。選手を見て
予備知識を仕入れておくのことも無駄じゃない。」スポーツ新聞は若手選手
だけではなく田淵幸一、山崎裕之らのベテランも汗を流していると伝えている。
「では、退屈しのぎにちょっと行ってみるか」ということになった。ごく軽い気持ちで
見物するつもりだったのだが、見物しているうちに、私たちの気持ちは大きく揺れ
動き始めた。
選手達の動きを目で追いながら、私は金縛りにあったように立ち
つくしていた。いつの間にか、その自主トレーニングに魅了されて
いた。森昌彦が耳元でささやいた。その声は、興奮のためか、震え
ていた。「いけますね、これは。」その言葉は、今でも私の耳に残っ
ている。私も同じ思いだったからである。その時の私は、表現のしよう
のないなにかに感動し、身体中の血が騒ぎはじめていた。
私は、選手達のプレーぶりや、トレーニング法が見事だったから
感動したのではない。彼らの技術は明らかに未熟といえた。
トレーニング方法にも欠陥が目立った。 しかし彼らの肉体はたくまし
かった。みんなバネがある。瞬発力も鋭い。このことは、プロ選手
としての技術を吸収し、身につける上で欠かせない基礎体力の養成が
ほぼ近づいていることを意味している。もちろん全員がそうだとは
いえないが、予想以上に多くの選手が、そのレベルに達していた。
「ウーン、ここにいると・・・・」と言いかけた私の言葉をさえぎるように
森がまたささやいた。「巨人軍の選手が子供に見えますね」
私は思わず吹き出した。その森の言葉が、彼に告げようとしていた
私のセリフとまったく同じだったからだ。
豊かな素質を秘めた選手が予想をはるかに超えて多いことも
発見できた。未完成だが、同レベルの選手達が、横一線に並んで
競い合っている。そんな感じの自主トレーニングだった。そのせい
だろうか、全員がキビキビと動いていた。コーチにハッパをかけられて
いるわけではなかった。全員が自らの意志で動いていた。自主性が
芽生えているのは明らかだった。しかも、彼らの態度は、真面目で
ひたむきだった。「いいムードですね」近藤が言った。森が「当分の間
毎日、僕らも見学にきましょうか。」 「そうするか。」と私。この場合、
森のいう「見物」とは、私達の自主トレーニング参加を意味していた。
私たちはライオンズに魅せられ、引きずり込まれた形で、彼らの
自主トレーニングに自主参加することになったのである。しかも無報酬で・・・
つい一時間前には思っても見なかった成り行きになった。私には
コーチの経験も、監督の経験もあった。だが、指導する側が、指導される
側に引きずり込まれて指導するというのは、初めての体験だった。