民主圧勝ならうpちまつ

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320名無し@18歳未満の入場禁止
日本の明治時代に2つのイデオロギーがあった。
@勝海舟の「興亜論」(アジア主義)…「日本は中国や韓国と共に、“東アジア共同体”を作るべき!」
A福沢諭吉の「脱亜論」(脱アジア主義)…「中国や韓国は民度が低いから“東アジア共同体”は不可能!」

勝海舟の『興亜論』に触発されたのが樽井藤吉(社民党の先祖)である。
彼は1885年に『大東合邦論』という論文を書いた。
「興亜論」の具体論であり、当時最大の脅威だったロシアへの対抗論であった。

「日本はまず、韓国と対等に合邦し、“大東”という国をつくるべし」
「そして“大東”と中国が同盟し、ロシアを倒すべし」
「更に東アジアに進軍し、白人からアジアを解放すべし」

…「日韓併合」と「大東亜戦争」のルーツと言われる論文であった。
しかし、その後、日露戦争で日本は単独で勝利する。
日本は1流国になり、『大東合邦論』の価値は薄れた。

ところが、この『大東合邦論』を韓国で利用する人物が現れた。
李容九である。
彼は一進会を率い、日露戦争後に、「日本と韓国は対等合邦するニダ!」という図々しい運動を行なっていた。
(当時、韓国は日本の保護国であり、国家予算の大半を日本が援助していた)

しかし、1909年、韓国のテロリスト安重根により伊藤博文が暗殺される事件が発生した。
昨日まで図々しく「日韓対等合邦ニダ!」と騒いでいた韓国人は恐怖した。

「に、日本に復讐されるニダ!」
「もう対等合邦は無理ニダ!植民地にされる前に併合を要請するニダ!」

…こうして、「日韓合邦運動」は一気に「日韓併合運動」へと変質した。
そして1910年…韓国政府が、日本政府に併合を申し込んだのである