2020年、鹿児島県鹿屋市市議会では積年の課題であった市営文化施設建設案が討議された。
案件は4つの施設を同敷地内に建設する案として提示され、内容はいずれも郷土出身の文化人らしき人に関する施設であった。
4つの施設は「和田勉のガハハ館」「哀川翔のリーゼント博物館」「国生さゆりのおニャン子館」「カワード大石のオタク文学館」と時代から取り残された案が提出されたが、
市会議員の中から他の3人に比べ大石氏の知名度が低いという意見や、とっつぁん坊やだった若い頃の写真がキショイとか同級生から嫌われていたとか、
共産党の市議会議員からは以前共闘した長野県知事について意見の対立があった等、大石氏に対しての意見が続出、他の施設については「哀川氏のリーゼントは自毛かヅラか」
「ヅラならヅラ会社をスポンサーにするべきだ」という意見以外は反対意見もなく、
「カワード大石のオタク文学館」のみ、他の3施設と切り離し再度審議することで、他の3施設については基本構想は可決された。
が、同日、同市の教育委員長が在京の発行部数が3桁の雑誌「ウワシン」の記者と名乗る男のコレクトコール電話取材に対して
「大石氏の文学館は展示物が旧式のパソコンや一眼レフカメラ等目利きのしない質屋が買い集めたようなガラクタ類、
オートフォーカスに助けられてピントはあっているが、センスと腕が悪くてフレーミングがずれた飛行機の写真、今では性教育用程度の古いアダルトビデオ、
そして何より問題なのが誤字・脱字、誤変換ばかりのパソコン利用の小説の草稿。
あれじゃあ鹿屋市の教育が厨房程度と世間に公表するようなもの」と発言してしまった事が発覚したことから
「カワード大石のオタク文学館」は鹿屋市では再度審議として図られることは無かった。
また、この一件を見出しに飾った雑誌「ウワシン」も発行部数を4桁に伸ばすことは出来ず17回目の休刊に追いやられた。
後日、電話代の請求書から「ウワシン」を名乗る電話は長野県庁のすりガラス張りの知事室からであった事が突き止められた。
二度と日の目を見る事が無いと思われた「カワード大石のオタク文学館」が建設されることになったのは、大石氏の生まれ故郷から遠く離れた長野県松本市であった。
今年で90歳、全国最年長の市長として8期目を迎えた全国老人市長会会長の有賀正氏に、
親子2代で後援会長を務めるラルト(ゲイ名)氏より「ハコもの行政を支持してくれた旧友の大文学家の記念館」と言うふれこみで持ち込まれたのであった。
例によって市議会では大した混乱もなく建設が決定された。
建設予定地は旧東筑摩郡麻績村で現在は松本市大字聖高原字クリスタルと呼ばれる場所である。ここは第二バブル期に長野県知事任期〇期目に悪性の膀胱腫瘍で急逝された
故田中康夫元知事が発案した「自然の中の都会」をイメージしたリゾート地として開発された場所でホテル、別荘、カントリークラブが乱立したが、第二バブル崩壊以降は多くの施設が閉鎖され、一時的に地域全体が廃墟と化していた。
目玉施設であった、航空会社が経営していた故田中元知事お気に入りのホテルは「田中康夫ペログリ文学館」として、故田中知事第二期目に民間から副知事に指名された高橋亀吉(ゲイ名)氏の発案によって改装されていた。
「カワード大石オタク文学館」は「田中康夫ペログリ文学館」と道を挟んで向かい側にある席数200の「ブリリアントB,B,Q,」と言う名の焼き肉屋の跡建物を再利用する事に決まった。
この焼き肉屋は第二バブル崩壊後、「長靴での御来店は御遠慮願います」という看板を外し、メニューに白い粉がかかった野沢菜を加えた事で地元客中心に比較的繁盛していた。
が、「田中康夫ペログリ文学館」のなかの「田中康夫ぬいぐるみコレクション展示室」が原因と噂されたクリスタルアトピー感染騒動のあおりを受けて倒産してしまった。
この「カワード大石オタク文学館」は鹿屋市で計画され、大石氏より寄贈を受けた展示物以外に付属展示室として、
旧下諏訪地籍にあり「残すべき自然もない」の有名なフレーズで始まる「kawamoyuru念仏堂」が「kawamoyuru別館」として移築併設されることになった。
「kawamoyuru別館」は県政会の最高顧問石田痔一郎氏と一旦は県政会を離れ再度県政会に戻り現在は県政会団長を務める諏訪湖市選出の浜県議からの強い要望で実現された。
「kawamoyuru別館」について有賀松本市長は「まぁー、世の中にはいろんな人が居るってもんずらねぇー」と意外に正気であることを世間に示した。
「カワード大石オタク文学館」に対して、故田中康夫氏より知事を引き継いだ高橋亀吉(ゲイ名)長野県知事は長野県広報誌「提灯新聞」のなかで
「松本市もいい加減にハコもの行政から脱却すべきだ。特に中身が全く無い今回の様な事業に補助金はいっさい認めない」と言明した。
この発言に連動するかのように、元市会議長で市長選連続5回出馬落選で現在も市会議員の元市会議長(ゲイ名)や、共産党在籍者を中心とする一部の市会議員が市の施設に対して23回目の建設反対運動を始めている。
この反対運動には、県会第二会派で知事与党の「モグラ会」所属で松本市選挙区(含、旧塩尻市区)選出のジョージ三世(ゲイ名)県議や知事選ウォッチャー(ゲイ名)県議が関わっていると噂されている。
また、ほめ殺しの反知事メルマガ「提灯持ち」は高橋亀吉知事の対応について「私怨」を強調、ジョージ三世(ゲイ名)県議や知事選ウォッチャー(ゲイ名)県議の対応も揶揄している。
このメルマガの発行はラルト(ゲイ名)氏と言う噂だが関係者の間では20年間公然の秘密とされている。
これら一連の動きに対して多くの市民は松本市の年中行事として冷ややかに見守っている。
「カワード大石オタク文学館」建設で揺れ動いたのは長野県だけではなかった。15年前に善行自慰氏が村長に当選、その後住民投票で新潟県中頸城郡に編入した小谷村も同じだった。
同村は、高橋亀吉氏が県知事になった事に突然キレた善行自慰村長が村民宅を戸別訪問「ハンを押すまで帰らない」姿勢で村民全員の承諾で新潟県へ編入したものだった。
白馬町と小谷村の間の新県境は高橋知事の意向で鉄条網で封鎖され、道路は遮断、白馬町は県指定の経済特別区として開発が進み第二の「自然の中の都会」地区となっていた。
私怨と少しの理念だけで新潟の人となった善行自慰氏も白馬町の発展を目にし、チャンスがあれば白馬町と県を越え合併、長野県白馬市の市長になりたいと支援者に漏らしていた。
善行自慰村長は大石氏を仲介者に、木曽路市選出で県政会に所属していた天声人語(ゲイ名)県会議長に訴え掛け再編入を狙っていた。
天声人語(ゲイ名)県会議長は旧木曽郡山口村の岐阜県から長野県への再編入の実績もあった。
また、善行自慰村長は旧知の仲で新潟編入の際に仲介の労を執ってくれた西澤隆(本名らしい)氏はきっと理解してくれる。彼を裏切る行為ではない。と、語っていたらしい。
御用新聞「新米」では謎の編集長K嬢の指示で「カワード大石オタク文学館〜無用のハコものと破綻間近な松本市政」という特集連載記事を組むことになった。
「破綻間近な松本市政」と「松本市長期政権の弊害」シリーズは新米で15年来掲載を続けられ、コラム「K譲の日記」と並ぶ看板記事と編集長は語っている。
「カワード大石オタク文学館〜無用のハコものと破綻間近な松本市政」はネットワーク黎明期から大石氏と関係の深い人達からのインタビューが中心だった。
先ずは、元信濃町町議で町議会の「野次元帥」と呼ばれたが他人の野次には直ぐにキレた上に、政策が全くなく馬科だという噂が流れ町長選で落選、
信濃町が長野市に合併した後は、市会議員選、県会議員選、市長選に連続出馬したが落選、現在地元町会長に出馬表明している一県民ん(ゲイ名)は、
防臭マスクをした記者の全ての質問に対して「あなたの意見をどうぞ」「やるかぁ」「それが何か?」を連発、以前と変わらぬ健在な様子を見せていた。
白バラ会2代目代表幹事で元県職員のトリシン(ゲイ名)氏は電話帳から第35回長野県知事不信任案署名用紙に名前を書き写す作業を続けながら
「今は鳥取の問題の方が忙しいので長野県のことは息子に聞いて下さい」と。
トリシン(ゲイ名)氏の息子で県職に縁故採用された、ただなんとなく(ゲイ名)氏は「どうしてなのかなぁ、出合いサイトは何がいけないのかなあ」。
戸隠山(ゲイ名)副知事は「私は公式の場で答えられる立場ではありません。真実はヤフの掲示板で語られ続けています。」政策室長の幅下マン(ゲイ名)氏、
しなの鉄道に出向中の元民(ゲイ名)氏もほぼ同様の答えであった。
20ちゃんねるという掲示板のオーナーひろゆき(ゲイ名)は「和田勉のガハハ館の方が良かったなワッハハハ!」と言いながら外れた顎を押さえていた。
国会議員の政策秘書として5万円の給料で活躍していたが、メキシコ製の愛車ビートルの音が暴走族と間違えられ迷惑防止条例にひっかかり責任をとって辞職、
現在無職のローズ(ゲイ名)氏はモニターに向かいキーボードを叩きながら「そんなのネコに聞けよ、ネコに」と、チャットに夢中の様子であった。
オリンピック国際都市復活党を立ち上げ、一部市民から熱狂的に支持され長野市会議員に当選し、現在長野市会議長を務めるぐるりん号(別名・林檎尊師)は、
「大石氏の功績は長野県にとって大変に大きなものであり、長野県民として大石氏の銅像を建立したいと考え、我が党の議員達と相談しています」と七色の声で答えた。
同党の議員達も口々に「合点承知でぇ〜」などと七色の声で答えていた。
その後、大石氏の銅像を建立する話は県政会、白バラ会などの同意もあり試作の石膏像まで出来上がったところで資金切れとなりお蔵入りしてしまった。
「裏」氏、「ロゼ」氏、「トリイさん」氏ら十数名は15年、長野県民を恐怖のどん底に落とし、今年時効を迎え迷宮入りとなってしまった「ヤフ長野関連連続殺人事件」の被害者として知られている。
長野県のネット社会に暗い影を落とすことになった謎ばかりの事件の全貌は、最後まで長野県警でも把握する事はできなかった。
ヤフの長野関連版に出入りしているキャラにメールが届きメールの指示した場所に出向くと事件に巻き込まれるまでしか判らなかった。
また、この事件で最大の謎は被害者の遺体が一体も発見されおらず、遺髪だけが残されていることだった。もう一つ、事件現場と思われる所に必ずネコのマーキングがあった。
様々な噂があったが、PCに残っていた記憶からメールの差出人は柳町団地に住む美人妻ということで、県警では徹底的に調査したが該当者はいなかった。
事件発覚後、県庁入り口に「ヤフ長野関連連続殺人事件関係者の追悼石碑」が建てられたが、いつの間にかバラで覆われ今では近づく人間もいなかった。
「美人妻」のメールに呼び出されて尻尾を振ってついていったと陰口を叩く県民も多かったのも事実であった。
御用新聞「新米」の新米記者がヤフで成仏できなかったり、1・2回の水子で逝ってしまったHNの供養をしている仙人もどきがいるという情報をキャッチ、
確認に足を運んだところ、仙人もどきは「サルの湯」での湯あたりが原因で長野市栗田にある病院に長期入院中であった。早速、病院の許可を取って取材に当たったところ
新米記者に対して「オマエはワシのカガミである」と戯けたことをヌカすばかりでらちが明かず、時折、看護に来るという自称むかし「藤原紀香」に似ていた女性を訪ねることになった。
女性の住まいは比較的権堂に近い柳町団地で夜は権堂で「パー子」という源氏名で働いているという。捜索初日1軒目で「パー子」の所在は判った。有名人だった。
「パー子」の勤めている店は一般人は出入りしないキショイ店だった。芸バーである。新米記者が店のパパに事情を話し「パー子」を呼んでもらうとドスの利いた野太い声で
「あ〜ら、いらっしゃあぁ〜い」と背の高さと衣装だけが「藤原紀香」に似た50歳を10年前に過ぎた様なネカマが表れた。世界登録遺産級のキショイネカマだった。
あまりのキショサに取材に身の入らない新米記者に「パー子」はタバコの煙を吹きかけながら「バカな男は嫌いなの」と得意の台詞を吐いた。タバコはハイライトだった。
御用新聞「新米」では「古米」否「古参」の記者が20年前の「信毎」を再読して過去の記憶を脳裏から引き出していた。彼はレクター博士のような記憶力は無かったが、
拘束帯に黄色いキャップが似合うヤフと2ちゃんで活躍したキャラを思い出していた。02年の3月突然皆の前から姿を消した男。多面体氏の捜査を開始したのだった。
もちろん、捜査は栗田にある病院から始められた。手がかりはあった。20年近く前から独居房に入れられ、その後は誰も見たことのない患者がいるというのだ。
その患者とむかし一緒だったという「てい」と言う患者が古米記者に近寄ってきた「俺はまともなんだ!陰謀でここに囚われているんだ!」キティの決まり文句だ。
看守、否、看護士が突然「てい」と言う患者を鞭で打ち始めた「この患者は極度のマゾで定期的に可愛がってやらないといけないんでさぁ」なるほど、不思議なキティだ。
鞭打たれた後「てい」と言うキティは「アンタ、多面体氏を探しに来たんだろう?アイツなら地下の独居房に入れられて20年近く経つ。拘束帯に黄色い帽子、いつも苦笑いのキショイヤツだった」ていも充分キショイMだった。
多面体氏(本名 フユヤマ 元銀行員)との面会には院長の特別許可が必要だった。院長は「レクター博士に会いに行く覚悟が必要だ」と古い映画の例え話を持ち出した。
多面体氏は並外れた知的な狂人なのか?古米記者の想像は見事に外れた。独居房の奥で多面体氏はヘラヘラ笑いながらオナニーに耽っていた。
看護士は「完全な変態野郎です。もう二度と娑婆に戻ることは無いでしょう。でも不幸なヤツなんですよ。誰かにザイルを切られて転落して頭を強打したらしい」
院長も「元々異常な性癖があったようだが、頭を打ったことで自制心が全くなくなりひたすらオナニーを続けている。死ぬまで続けるだろう」と診察していた。
また看護士は「コイツの所には入院当時から毎月1ボールずつ差出人不明でティッシュペーパーが送られてくる。きっと古い知人からだろう」と教えてくれた。
古米記者が思わず「可哀想なヤツだ」と口にすると多面体氏が突然「もちろん同情でなく嫌味」と苦笑しながら吐き出すように囁いた。人の心を読みとるのか!古米記者は想像力も勘も悪かった。
しかし、ティッシュペパーの贈り主を調べることだけは忘れなかった。配達してくる薬局の証言では発注主は判らなかったが、送金元がケイマン諸島であることが判明した。
「新米」の古米記者は地図を見ながら叫んだ「ジョージ三世だ!」。ケイマン諸島最大の町はジョージタウンだった。やはり、古米記者は想像力も勘も悪かった。
古米記者は早速アポを取ってジョージ三世県議に合うことにした。指定された場所は松本市の城西にある病院だった。知事選ウォッチャー県議同席が条件であった。
二人の県議は高橋亀吉現長野県知事とラルト現有賀正後援会長が20年前にヤフのオフ会を機会に立ち上げた「モグラ会」の発足時からのメンバーであった。
その後、松本市民会館建設を巡って高橋氏とラルト氏が対立、両県議とも掲示板から消えていたが高橋知事誕生時に県議選に名乗りを上げた了見のフテー奴らであった。
以来20年、両県議は高橋知事に賛成票を投じる事と反有賀運動を繰り返すだけだったが長年影では「サヨらしい」と噂され続けていた。
しかし、何故二人の県議は城西の病院を会見場所に選んだのか?勘の悪い古米記者でも直ぐに理解できた。二人とも故田中知事以来強い電波にやられていたのだった。
古米記者は早々に会見を切り上げた。電波に対する警戒からだ。それと同時にティッシュペーパーの贈り主が彼らではないことも感じ取った。
新米の謎の編集長K嬢は未だに動物系ステハンで日に数十回ヤフに三行カキコを続けている通称「ヨネ」氏にコンタクトを取ることにした。
ヤフの協力を得て判った「ヨネ」氏の接続箇所はケイマン諸島だった。すると、ティッシュペーパーも「ヨネ」氏だったのか?編集長K嬢は推理した。
しかし、そこから先は手も足も出なかった。ケイマン諸島に取材に出かけるような資金はない。たとえ出かけても取材に応じてはくれないだろう。突き当たりだった。
「ヨネ」氏取材を諦めた編集長K嬢は、特集記事に箔を付けるため首相にインタビューを申し込んだ。ダメもとであったが、首相の網走にある特別公務室で単独で5分間と言う条件で許可された。
編集長K嬢が首相を訪ねると首相は朝から酒の臭いをプンプンさせながら上機嫌であった。
「よ〜くきたねこ。ここが夏の海園の街ねこ。寒くなったら皆が住んでいるケイマンの海園の街に行くネコ」
「ヴァ〜ヴァ〜ヴァ〜な長野のみんなは元気かねこ」
「虚弱なフユヤマのザイルは切るのが一番ねこ」
編集長K嬢が一言も喋らないうちに5分間は過ぎインタビューは終わった。しかし、編集長K嬢は全てが理解できた気がした。(第1章 終)
2030年。世界中のあらゆるメディアにニュースラインが走った「ビンラディン氏パリで拘束される」。約30年間全世界から追われていたビンラディン氏が捕まったのだ。
約1時間後には、拘束時の詳細が特別ニュースとなって放映された。ビンラディン氏は再度テロを起こすべく戦闘機を手に入れるためパリの航空ショーを視察に来ていた。
髭を剃り、肌の色を脱色、ヅラにストライプのきついスーツ姿はマフィア系に見えたと目撃者は証言している。拘束場所はホテル内のレストランのウェイティングバーだった。
レストランが満席だったため、仕方なくバーでコーラを飲んでいたビンラディン氏と数人の護衛に初老の日本人が「1杯付き合わんかね」と、自分と同じアブサンを勧めた
ビンラディン氏が丁寧に断ると、泥酔状態に近かった日本人は「俺の酒が飲めんのか!」と突然暴れだし「俺ぁは、薩摩隼人だぞ!」とアブサンの瓶を振り回したのだった。
護衛が日本人を取り押さえようとしたが、酒を一切飲まないイスラム教徒にアブサンはかなりきつかったらしく臭いだけで護衛だけでなくビンラディン氏まで、その場で倒れ込んでしまった。
騒ぎを起こした日本人は駆けつけた警察官に逮捕され、被害者だったビンラディン氏一行は被害者として警察に同行求められた。護衛たちは武器は持っていたが酒気で動けなかった。
酒も飲まずマフィアの格好の一行は誰が見ても充分に怪しかった。背の高い男が特に目立ったのは言うまでもない。その男は髭と肌の色とヅラを除けば手配リストトップに載っていた男だった。
ビンラディン氏拘束のニュースが流れる中、泥酔状態の日本人が正気を戻すのに丸2日間かかった。男はパリ警察のトラ箱で2日間過ごし、正気を戻した時は記憶もないまま英雄に祭り上げられていた。
日本人の名はカワード大石。70歳。自称もの書き。長野県には彼の文学館もあるという。パリへは利用低迷に悩む松本空港利用促進委員会委員の元市会議長の案内役で航空ショーを見に来たという。
松本の市会議長を30年前に経験したことがあるという元市会議長が公金を使った視察旅行で「パリのショーを観に行く」と言い出した時、関係者は騒然となった。やはり「女」だったのか!と。
パリのショーが航空でファッションではないと判った時は「やっぱり」と関係者は感じたらしかったが、市長だけは疑問を抱き随行員は市職でなく専門知識があり自分の息の掛かった大石氏に依頼したのだった。
トラ箱から解放された大石氏を待っていたのは、世界中の報道関係者だった。宿泊場所も星無しホテルから迎賓館であるルーブル宮のリシュリュー翼に移りエリゼ宮で晩餐会まで予定されていた。
晩餐会前のエリゼ宮での記者会見は大使館から駆けつけてくれた大使達のおかげで無事済ませることが出来たが、晩餐会は悲惨だった。先ず、成り行き上で同伴となった元市会議長(一応、女性)、
オートクチュールで即席で作り上げたイブニングを着た彼女の姿を見て大統領は顔がひきつっていた。妖しく輝くサテン地のブレザーにズボン。大石氏は思わず「白木みのる」と言ってしまった。
彼女の「箸無いの?箸!」の一言から始まった晩餐の一時は悲惨だった。しかも彼女は「本当に良かった。市長じゃなくて、私で。市長は下品だから」と大声で笑っていた。
大石氏が晩餐会からリシュリューに戻ると、日本からコレクトコールの電話取材が入っていた。日本を意味するジャポーンが「あぽーん」に聞こえ反射的に切ってしまった。相手は17回目の休刊中の「ウワシン」だった。
大石氏はパリから帰りの機中でフランス政府から差し入れの黄色いセロハンに包まれたルイ・ロデレール・クリスタル・ブリュットを飲みながら「康夫のヤツ、こんな良い酒を飲んでいたのか」と昔を懐かしんだ。
大石氏と元市会議長の帰国後の明暗は大きく分かれた。
元市会議長は、大石氏が航空ショーに夢中になっている間にパリを観光した上に、エリゼ宮で着ていたオートクチュール製の「白木みのる」風の服の代金を視察旅行の代金に上乗せしたことが発覚、
9回目の市長選出馬は絶望的となった。元市会議長は当初は「私は航空ショーの会場にいた。大石氏はショーに夢中のあまり私とはぐれたことに気づかなかっただけ」と説明していたが、
同時期にパリに視察兼観光に来ていた「松本オペラ・セロリ・有賀発展活動(MatsumotoOperaCeleryArugaDevelopOperation)略称:モサド」の一団が凱旋門で撮った記念写真に写っていてアリバイが崩れた。
モサドは21世紀初頭より活躍していたが、最近はイズラエルのモサドとフランチャイズ契約を果たし活動範囲を広げた。主に松本市長の政敵を陥れる活動に従事しているという噂だ。
「白木みのる」風の服の代金については、請求1万ドルを1万円と間違え「必要経費以内だと思った。まさか1万ドルもする洋服があるなんて」との事。庶民派と言うより単なる無知だった。
結局、「白木みのる」風の服は元市会議長が自費で引き取り、市議会を始め事有る毎に「パリの1万ドルの服」と言って着ていた。葬式の時は特に評判が悪かった。
大石氏にとって最も幸運であったのは、ビンラディン氏拘束の場に日本語を話す人物が全くいなかった事である。当初、突然暴れ出した大石氏を「質の悪い酔っぱらい」と思っていた関係者が、
ビンラディン氏に気付いて捨て身の戦いに挑んだ「勇気あるサムライ」と証言を直した。事実は「質の悪い酔っぱらい」なのだが大石氏も「勇気あるサムライ」発言を否定しなかった。カワードである。
ビンラディン氏も取り調べに対して「大石氏の目には殺気があった」と証言している。本当は酔って目が座っていたのだった。これに対しても大石氏は否定しなかった。やはりカワードである。
ホテル関係者は宣伝になると判断して「OHISHI」と言うホテルのオリジナルカクテルまで作った。アブサンを鹿児島特産芋焼酎で割った俗に言う「爆弾系」のカクテルである。
余りに宣伝が過ぎたホテルがイスラム過激派の仕掛けた爆弾で爆破されてしまった事は書くまでもない。特にバー近辺は大量に仕入れてあったアブサンと焼酎がナパーム弾の役割をしてしまった。
大石氏もサルマン・ラシュディ氏以来の死刑判決を受けてしまった。が、良い事もあった。ブッシュ(孫)大統領の強力な推薦でノーベル平和賞の受賞が決まったのだった。
大石氏にとって何より嬉しかったのはノーベル平和賞でなくイスラム世界からの死刑判決に対して、孫ブッシュが「米軍の威信に懸けても大石氏を守る」と誓ってくれたことであった。
大石氏の頭の中に浮かんだのは最新鋭の装備を施した4軍に守られる自分の姿であった。実際は横田基地内の留置場を改造した特別警護室でMPによって自由を拘束されるのであった。
安価な警護は首相が大石氏の警護に「おもいやり予算」の流用を拒んだためであった。それでも、ノーベル賞受賞のためオスロまで特別機C-130に搭乗した大石氏は有頂天であった。
大石氏を乗せた特別機は平壌に着陸、平壌からは米国と国交を回復した事でノーベル平和賞を受賞する事になった飛行機嫌いで有名な"偉大なる首領様"の装甲付き特別列車に同乗させてもらい、
シベリア経由でオスロまで向かうのであった。祖父、父の戦争好きのイメージを払拭して世界平和に貢献をアピールする孫ブッシュのアイディアに乗せられてしまったのだった。
オスロまで四六時中ゴジラ映画を上映しながら走る装甲列車を大石氏は結構気に入った様だった。"偉大なる首領様"とは趣味も話も良く合った。実は似た者同志だったのだ。
ノーベル賞授賞式後の記者会見で大石氏が「物書きである私は本当はノーベル文学賞の方が良かった」と受け狙いの軽い冗談を飛ばしたところ「小説家とは知らなかった。どんな作品を書いているのですか」
という質問が続出した。日本からの報道陣で「ウワシン」という17回目の休刊中の雑誌の特派員が「貴方の書いていた戦争物はノーベル平和賞に相応しいのか」という質問に会場は騒然となった。
窮地を救ったのは、今年100歳、各国各地の歴代市長の中で最年長、世界老人政治家連盟名誉総裁でギネスブックにも載っている有賀松本市長であった。「まぁまぁ兄さん、目出度い席だで、止しましょや」
ギネスの効果はあった。人の集まる席は欠かさない有賀市長は「カワード大石オタク文学館」所在地の首長として公費でやって来ていた。行き掛かり上、元市会議長も一緒だった。
祝賀パーティーには記者会見の時は席を外していた高橋亀吉長野県知事もいた。元市会議長は「パリの1万ドルの服」で登場、授賞式もジャンバー姿で通した"偉大なる首領様"の兄妹と間違われていた。
有賀松本市長がキャビアのカナッペの食べ過ぎて脳溢血を起こし救急車で緊急入院したことと、元市会議長がオイルサーディンを食べ過ぎて鼻血で「パリの1万ドルの服」を汚した事以外は難なく祝賀会は終わった。
式典後の帰りは"偉大なる首領様"と意気投合した大石氏が自らシベリア経由を希望、四六時中上映されていたゴジラ映画は007シリーズに変わっていた。平壌到着後、大石氏は暫く平壌に国賓として滞在することになった。
松本市の「カワード大石オタク文学館」はにわかに忙しくなった。展示品は相変わらず目利きのしない質屋が集めたガラクタ類であったが、大石氏がカメラを買い換える度に旧型機を買い取っていたため、展示品数だけは増えていた。
「田中康夫のペログリ文学館」は景気が好転したため展示スペースを極力減らし元のホテルとして営業していた。BGMがいつもポール・デイビスのアイ・ゴー・クレイジーなのが名残だった。
松本に帰った有賀市長は早速「カワード大石オタク文学館」の別館として「カワード大石ノーベル賞記念館(仮称)」の計画案を発表した。「田中康夫のペログリ文学館」のあるホテルを買収して改装する計画だ。
相変わらず共産党を中心とした反対運動が起こった。市の施設に対して31回目の反対運動である。が、元市会議長は反対派に荷担せず、「ノーベル賞」相手では運動に盛り上がりが欠けた。
一旦は運動の先頭に立ったジョージ4世県議も「モサド」に秘密を握られているらしく反対運動は早々に沈着した。ジョージ4世県議の弱みは、当然「女」である。歴史は繰り返される。
高橋亀吉知事は有賀松本市長の補助金要求に対して「金は出すから意見を聞き入れろ」を条件に補助金の支出を認めた。要求額の1/5であったが有賀市長は後援会長ラルト氏に「元々10倍水増ししてあった」と語った。役者が違った。
もちろん、ラルト氏はこの話を自慢げに公表してしまい、後援会規約違反でコチョコチョの刑を科せられた。この刑罰は発案者も受刑者もラルト氏一人であった。刑の執行人は「キショイ」と一言漏らしていた。
有賀松本市長の多くの政敵が「モサド」によって消滅していくなか、高橋亀吉長野県知事は広報誌「提灯新聞」の編集室である「提灯空想文学集(ChouchinImaginativeAnthology)通称:C.I.A」によって守られていた。
長野市でも大石氏のノーベル賞受賞を契機に一旦頓挫した大石氏の銅像建立のための資金集めが再開され、お蔵入りしていた石膏像をブロンズ像にする作業が始まった。
しかし、石膏像は傷みが激しく多くの部分を彫刻家によって手直しする必要があった。
高橋知事が補助金の代わりに得た口を出す権利は「記念館の名称、銅像の作者、BGMの選曲」であった。銅像の作者は南村東望氏、BGMはポール・デイビスのアイ・ゴー・クレイジーだった。
「カワード大石ノーベル賞記念館(仮称)」の建設は早かった。また、高橋知事命名の館の正式名称は、南村東望作の銅像除幕式の時に発表される事になった。銅像は「カワード大石ノーベル賞記念館(仮称)」の正面に建立する。
南村東望氏は報道陣に対して「薩摩隼人の大石氏らしい銅像に仕上げる」と語っていた。肝心の大石氏は国賓待遇が気に入ったらしく平壌滞在のままだった。除幕式は主役無しで決行される事となった。
除幕式の前の記者会見で高橋知事はBGMの選曲の理由について「長年、かとうかずこのファンであった」「30年前、田中氏を応援すればかとうかずこに会えるかもしれないと思った」と胸中を告白、
「映画『なんとなくクリスタル』を忘れる事が出来なかった」とも語っていた。施設の大半が「カワード大石ノーベル賞記念館(仮称)」になっても田中康夫の電波は失いたくないらしい。
また、彫刻家の南村東望氏は「大変素晴らしい作品を仕上げることが出来た。きっと、大石氏像は私の代表作になるだろう。作品全体の雰囲気は薩摩隼人の先人である西郷隆盛像から得た」と答えていた。
脳溢血から3日で回復、驚異的な蘇生力を見せた有賀市長は「また、これで松本市民の宝が増えます。ま、みなさん、ノーベル賞ってのはえれぇもんだでね」と40年間変わっていない。
序幕の紅白の紐は、高橋知事、彫刻家南村東望氏、有賀松本市長、大石氏の代理としてクリーニングでも血痕が取れなかった「パリの1万ドルの服」を着た元市会議長が行った。
幕が取れた大石氏の像は上野の西郷隆盛像と瓜二つであった。違うのは連れている犬が人面犬で大石氏によく似ている事くらいであった。除幕されると高橋知事がマイクを持って、
「大石氏のノーベル平和賞受賞を記念して、本日『バター犬大石のヒッキーノベル記念館』を開館いたします」と言い放ち壇上から消えていった。大石氏の銅像は犬の方であった。
後日「ノベルはノーベルの間違いか?」という質問に対して高橋知事は「さあ、誤字・脱字は大石氏が得意でしたから」と巧く質問をかわしていた。
肝心の大石氏は、平壌滞在中に"偉大なる首領様"が「ガイ・ハミルトン監督が私に007に実像で出演しないか?と問い合わせて来た」という話に大笑いで反応してしまった事で国賓待遇から拉致待遇に一変してしまい、
帰国の目処が立たなくなってしまった。しかし、平壌ではイスラム過激派に狙われることもなく横田基地の特別警護室での生活より自由だ。と内心安堵した大石氏であった。(第2章 終)