無限に付いて語る。実無限VS可能無限

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>>60

 丁寧な説明ありがとうございます。
 まず、(1)について。

>自然数の全体Nから実数の全体Rへの写像f(すなわち実数列)が任意に
>あたえられたとき,

 これが、背理法の仮定になっているわけですよね。野矢さんの言い分は「ここに仮定が一つではなく、実は二つ含まれている」という主張でした。つまり、

  仮定1:自然数や実数を“全体”として把握できるという「実無限」の仮定
  仮定2:自然数“全体”と実数“全体”は一対一の写像関係を作れるという仮定

 という二つの仮定です。この指摘は間違っているのでしょうか?
 実数xの小数第n位を、f(n)の小数第n位と異なるようにxを定めれば、xはどのf(n)とも「最低1箇所、少なくとも小数第n位では」異なる数になる、ということは僕もわかります。野矢さんの表現を借りれば、「対角線論法は独身の実数作成方法」です。しかし、僕にはこの結果から仮定1を棄却してはいけない理由がわからないのです。「自然数“全体”と実数“全体”の濃度が等しい」と仮定した結果、実は濃度が等しくないことが帰結した。そこで、「実は両者の濃度は等しくなかったのだ」と結論することもできると思います。しかし、それと同じぐらいの権利で、「自然数や実数に“全体”なんて概念を適用したたのが間違いだったのだ」と帰結してよいのではないでしょうか。

 (2)について。
 直観主義数学がまだ議論の対象だったとは、初めて知りました。僕はてっきりもう廃れた数学なのかと思っていましたから。それでも少数派なんでしょうね。
 ところで、60さんは排中律を必要とされますか?もし必要とするなら、「√2のどこかの位では、7が10回続くことがあるか、それとも続かないかのどちらかだ」という命題を支持しなくてはなりません。もし可能無限の立場に立ち、放棄してもよいとお考えなら、逆に実数“全体”という概念を放棄しなくてはならないはずです。
 この点はいかがでしょう。