>>224 >実は、排中律を「無限回使っている」ところが本質なのだ。
そう、それが「実無限」だ。
存在とは、在るか無しかの判別だ。
その手続きを無限回行って完了し切る
と考えることが実無限の本質だ。
そうではなく、任意の有限回では終わらない
と考えるのが可能無限だ。
それゆえ、実は自然数論ですら、実無限なのだ。
たとえばx+y=y+xの証明というのは、
つまるところ交換の手続きに過ぎないのであって
それが任意の自然数について成り立つ「証明」だ
と見なすのは、既に実無限的である。
しかしながら、その信仰は決して成就されない。
すなわち、自然数論自体が、無矛盾であるという
有限的証明は決してなされないのであるから。