無限に付いて語る。実無限VS可能無限

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194Ichsage
さらに話の腰を折るかも知れないが、事実として言える事として、
数学の大部分の議論が公理的集合論+適当な公理系の上に成り立っている事、
多くの公理系、特に公理的集合論のモデル(解釈)は一通りには定まらない
事があると思われ。

そう考えると、公理的集合論を集合によらずに解釈する事がヴィト氏の
主張を説得力のあるものにすることができると思うのだが、如何か?
(もっとも集合論の記号法を用いている時点でその操作の産み出す
物は集合と同じに考えられると言われるかも知れないが)

ところで、上の話と関連するかはわからないがLoewenheim-Skolemの
定理によれば、可算濃度の言語で記述される任意の公理系は可算濃度の
モデルを持つ事が示される。可算濃度というのは有限とまでは行かなく
とも高々自然数全体の集合と同じ濃度しか持たないので、可能無限派
にとっては有用な材料なのではないだろうか。

殆ど哲学屋を煽るような文章になってスマソ。

ところでヴィト氏=KUROIWA氏=Dr.G?