分からない問題はここに書いてね336

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83132人目の素数さん
bnf
84132人目の素数さん:2010/07/14(水) 14:08:36
bnf
85132人目の素数さん:2010/07/14(水) 14:11:28
480 :考える名無しさん:2010/06/24(木) 02:12:36 0
>貴方が「主観は曖昧なものである」とするのは
>実際にどのような事態を想定しての話ですか?

どのようなも何も、そもそも主観とは曖昧で確かで無い物、という前提があると思いますが…
主観と客観の概念とは、不確かな物と確かな物という違いでしょう。

>「懐疑の前提として実在を想定する」とはどのレベルであると思うのか?
>その実在が妄想なら、「懐疑する余地」など妄想に帰するのではないのか。

懐疑する上で実在の有無は関係無いという話なので、特に想定する必要はありません。
強いて言えば、主観から見て実在としか思えない事があるが、それは主観の思い込みである事を
否定しきれないので、実在が有るという事には繋がらないと言っておきましょうか。

懐疑論の論ずる、確かな物の否定において、懐疑する余地とは、客観と言う概念に対してあれば良いのです。
客観とは、普遍的で確かな物という概念ですので、懐疑される余地があるはずが無い物です。
しかし客観が懐疑する余地があるとすると、客観と言う概念には不備があったと言えます。
86132人目の素数さん:2010/07/14(水) 14:12:20
481 :スモ:2010/06/24(木) 02:39:20 0
「日本がカメルーンに勝って、オランダに負けた」のは事実だ
その事実は疑えるが、事実そのものは疑えない(消せない)

私が経験したことは疑えない
その経験は疑えるが、経験そのものは疑えない

「日本が本田のゴールでカメルーンに勝利した」ことは真実だ(と私は信じている)
この内容を疑うことは可能だ
「本田がゴールを決めなかった」
「カメルーンとは対戦していない」
「2010年にW杯なんてない」
しかし、そんなふうに疑うのはどこのドイツだ?
おそらく、同じ(事実の)経験にコミットしていない他者がそれを可能にする
もちろん私はその「疑い」を理解できるけれども
私は「私の経験」を疑えないのだ
(経験を疑えないことは、私の経験が真実だと言えることにならない)

「本田がゴールした」事実を真実として証明することは容易ではない
「同じ経験」の多数決ではもちろん証明されない

いや・・・おそらく証明できない
87132人目の素数さん:2010/07/14(水) 14:13:07
482 :スモ:2010/06/24(木) 02:40:01 0
ちがう、論点はここなのだ
>私はその「疑い」を理解できるけれども
私の経験することに何事かを言えるためには、私の経験しないことが要請されるということだ
だから、その「疑い」を認めることができる
私が今こうして思考して書いているときに、
例えば抄録氏が何をしてるかなどは知らない、経験できない
しかし、それは「事実」として起こっている
私はその「事実」を疑うことはできる、しかし、その何事かの「事実」は疑えない

「事実」は「わたし」だけでは生起しないのだ
そして「わたし」にとって生起する事は、
「わたし」にとって生起しない事が、生起していることを含むのである
「疑い」の源泉は、その>「わたし」にとって生起しない事、である

超転回になるが、
例えば「本田がゴールした」事実を真実として証明するためには
「本田がゴールした」以外の事実(すなわち経験の総体)が確認されることで完了される
写像なり、照応関係におけるような橋渡し的な方法では、その証明は真とならない
「事実」は一つしかない、一度しかないということは、比較は意味をなさない
系が一つであることの証明手段は、ボルヘスの地図を完成させることで確認するより方法がない
88132人目の素数さん:2010/07/14(水) 14:14:10
483 :スモ:2010/06/24(木) 02:44:04 0
むしゃくしゃしてやった
推敲してない(やっても自信ない)


484 :考える名無しさん:2010/06/24(木) 02:44:12 0
だんだんトンデモスレになってきたな


485 :スモ:2010/06/24(木) 03:27:46 0
>この内容を疑うことは可能だ
>「本田がゴールを決めなかった」
>「カメルーンとは対戦していない」
>「2010年にW杯なんてない」

このあたりが安っぽい誤解を招きそうだけど、うまくいえない

水槽脳にしても夢にしても5分前世界創造説にしても
事実を疑っても、事実そのものは疑えてないんだよな
むしろ事実が前提されてる

「経験」は「主観」と似たようなものだけど
「事実」ってものから攻めようとしたときに「経験」が浮かんだ
ただ「主観」とか「客観」とか「実在」とか使いたくなかったともいえる

なんだろうな、疑えることと疑えていないことを考えていたのと、
どうやって「わたし」という部分から全体が把握(全体の保証)されるかがテーマかな
89132人目の素数さん:2010/07/14(水) 14:15:25
486 :スモ:2010/06/24(木) 03:50:38 0
疑問に感じてることを簡潔にいえばこうだ、
「りんごは物ではない?」と言うとき
これは「疑い」として正当なのだろうか?
「問い」といわれれば違和感がない
じゃあ「問い」と「疑い」はどう違うんだ?

「疑い」は事実が前提されてる
「問い」は何も前提されない
ということか?

同じか?w
え?どうなんだ?


ダメだな、、、、狂ってきてる


487 :スモ:2010/06/24(木) 03:54:15 0
ぐわっw

疑問・・・・
90132人目の素数さん:2010/07/14(水) 14:16:19
488 :抄録 ◆xOLbFG9QNU :2010/06/24(木) 06:17:09 P
>>480
“貴方の中”で成立している構造は、まず

主観:曖昧で不確かなもの
客観:懐疑される余地のないもの

ですわね。

で、貴方は、貴方の主観内に成立する「客観“的”な観念A」について、
それは主観だから「不確か」である、と作為的に断定している訳です。
なんせ前提ですから。

この「客観的な観念A」は主観であり、懐疑され得る、とするわけですから、
これは、貴方の構造の中では、「客観」とはまったく別のものでしょう。
なぜなら客観とは懐疑される余地のないもの、としたので(貴方的には「前提」により)。

この構造では、客観があったとしても知り得ないだけ、となり
貴方の望むような「客観の概念の不備」なる結論は得られないでしょう。

>どのようなも何も、そもそも主観とは曖昧で確かで無い物、という前提があると思いますが…

主観とは成立する主観内現象の総体であり、
作為的な抽象概念とは違うでしょう。

貴方も自ら(に起こる現象)を内省することにより
「主観が判断する」等の発言があったのではないのですか。
それを「主観は不確かであることが前提である」とか、おかしいとは思いませんか。
主観が不確かであると判断する根拠は無かったのですか。
(無いってんならもーいいよw)