537 :抄録 ◆xOLbFG9QNU :2010/06/26(土) 14:52:12 P
>>522 貴方の懐疑論は、
「主観は不確かで曖昧なもの」
を作為的に前提とすることで構成されている。
しかし主観が不確かである根拠を(主観の内部から)貴方が示し得ないならば、
その前提は崩れるでしょう。
なので、以下のように考えてみました。
・「主観内に成立する観念は、その刹那、主観内からは疑い得ない。」
また、
・「主観内に成立する観念Aが客観的と呼ばれる内容として成立し、
またそれを疑い得るという事態は、
主観を越えた関係性(≒経時、記憶、外部環境、との相関)が存在することにより
初めて達成される。」
どうですか?
客観的なる観念(主観)の成立には、懐疑から独立した存在が要請される。
世界にはやはり真理があるのですよ。はっは。
538 :ンドゥール:2010/06/26(土) 17:45:57 O
北朝鮮とポルトガルの試合があったことは疑える
もしかしたらなかったかもしれないからだ
北朝鮮とポルトガルの試合がなかったことは疑える
もしかしたらあったかもしれないからだ
では、北朝鮮とポルトガルの試合があったかなかったか、どちらかだということは疑えるだろうか
あったわけでもなかったわけでもない、ということがありえるだろうか
ある人にとって試合はあり、別の人にとっては試合がない
ある人は言う
「君は知らないだけで、本当は北朝鮮とポルトガルの試合はあったのだよ」
別の人は答える
「僕が知らない以上、僕にとって試合がないことは本当なのだよ
君は知っているため、君にとっては試合はあるが、
僕にとっては試合はない」
こんなものは、無知に開き直った独善的な態度ではないだろうか?
539 :考える名無しさん:2010/06/26(土) 20:49:40 O
>>538 > 北朝鮮とポルトガルの試合があったことは疑える
> もしかしたらなかったかもしれないからだ
>
> 北朝鮮とポルトガルの試合がなかったことは疑える
> もしかしたらあったかもしれないからだ
>
> では、北朝鮮とポルトガルの試合があったかなかったか、どちらかだということは疑えるだろうか
ここを見ると、AまたはnotAは必ず真になる、みたいな、論理的真理(?)は疑えないのではないか、
というような話になって、なんだか面白いような気がするね
論理的真理とか数学的真理とかは、(よく知らないけど)いつでも誰にとっても正しいことになるのかね
そうすると、そういうものについての懐疑論は成り立たないことになるのかね?
(よく知らないけど、そうではないという話も聞いたことあるような気もするけどね)
540 :スモ:2010/06/26(土) 22:06:06 0
>>537 >・「主観内に成立する観念Aが客観的と呼ばれる内容として成立し、
またそれを疑い得るという事態は、
主観を越えた関係性(≒経時、記憶、外部環境、との相関)が存在することにより
初めて達成される。」
ここがよくわからないなあ
>主観内に成立する観念Aが客観的と呼ばれる内容として成立し、
ここはわかる
>それを疑い得るという事態は、 主観を越えた関係性が存在することにより達成される
この「主観を超えた関係性」(≒経時、記憶、外部環境、との相関)を、
「客観世界の実在」として指してると思う(理解した)のですけど、
どうして疑い得ることの対象がそのように限定される?
>客観的なる観念(主観)の成立には、懐疑から独立した存在が要請される。
ここも掴みきれてないかもだけど、
懐疑から独立した存在(客観世界)があるから主観は確かなものである、
だから、懐疑される世界が存在すれば主観は成立しない、
ということでしょうか?
541 :スモ:2010/06/26(土) 22:20:18 0
>根拠がないことを根拠にして疑う
>それは疑えるってことなのかい?と
ここが自分でもよくわかってないんだよな・・・
超越観(≒普遍性)の余地は・・・・あるように思える
でもそれをどう導き出せる?
唯意味さんのもわからないでもないが、おかしそうな不安がある
「北朝鮮とポルトガルの試合があった」ことを認める(人々の)根拠があるとして
それは、
「北朝鮮とポルトガルの試合がなかった」ことを認める(人々の)に適応されるだろうか?
「北朝鮮とポルトガルの試合があった」ことを認める根拠は、そうでない根拠の余地を生むのではないか?
う〜ん、おかしいような気もするが・・・
542 :スモ:2010/06/26(土) 22:22:21 0
>>541 適応じゃなくて適用だな
543 :考える名無しさん:2010/06/26(土) 22:31:06 0
コビトホイホイだなこりゃw
544 :スモ:2010/06/26(土) 22:33:24 0
確かに、無意味な観念体系から疑うことは成立しない
しかし、有意味な観念体系(主客相互の世界)は、そのこと自体限定されることによって、
有意味の境界の外側を要請されるのではないか?
545 :スモ:2010/06/26(土) 22:35:25 0
>有意味の境界の外側を要請されるのではないか?
有意味な境界の外側が要請されるのではないか?
細かいけど
546 :スモ:2010/06/26(土) 22:39:36 0
541はアナロジーとしてたぶん厳密じゃない
547 :考える名無しさん:2010/06/26(土) 22:49:15 O
>>543 本当は存在しないかもしれない分際で、荒らしageを繰り返すことは出来るとは、なかなかやるじゃねーかw
でも、どうせ本当は存在しないんだろ?w
548 :スモ:2010/06/27(日) 01:12:12 0
韓国惜しかったな
>この「主観を超えた関係性」(≒経時、記憶、外部環境、との相関)を、
>「客観世界の実在」として指してると思う(理解した)のですけど、
>どうして疑い得ることの対象がそのように限定される?
と、
>確かに、無意味な観念体系から疑うことは成立しない
>しかし、有意味な観念体系(主客相互の世界)は、そのこと自体限定されることによって、
>有意味の境界の外側を要請されるのではないか?
ここは正確に適応してる表現にはなってないな
>主観内に成立する観念Aが客観的と呼ばれる内容として成立し、
>またそれを疑い得るという事態は
ここがおかしいのかな
主観内における観念が成立するとき、客観的にも成立しているはずだ
その観念Aは疑える対象にならない
よって、それを疑い得るとはその「客観的」からはみ出してることにならないか?
549 :スモ:2010/06/27(日) 01:13:56 0
いやいやまてまて、ちょっとおかしいぞ
550 :唯意味論:2010/06/27(日) 01:17:53 0
>>539 論理的“真理”が成立するためには、ルール(規則)の完全性が前提になる。
その真/偽は、したがって規則に則ったゲーム上のそれである。
規則の不完全性が露呈すれば、その真/偽は根拠を失なうだろう。
サッカーの勝ち/負けも、おなじことがいえる。
サッカーに間接的ではあれ、参加するためには、それがゲームであることを
まず認め、そのルールを無条件に受け入れる必要がある。
そのかぎりでは、勝ち/負け/引き分けは成立する。
サッカーというゲームを認知するものにとって「北朝鮮とポルトガルの試合
はなかったのでは?」という懐疑は「もしかすれば、あれは夢だったのかも
しれない」とことだろうか。
が、これは確認を重ねることによって、どちらか(不可疑)に至るのでは?
もう一つ、スモ君のいう「北朝鮮では、7対0でポルトガルに勝利していた」
という話は“情報操作”の問題であり、今日的なテーマではあるが、情報が
開示されれば、北朝鮮の人々も負けを認めるのではないか。w
常識的だが、このあたりは、もう結論がでているのでは?
そろそろ、サッカーから私たちの“世界”に移ろう。
この世界がゲームなら、つまり規則に則っているのなら、抄録氏や機械氏の
いう“真理”はあるかも。
では、だれがこの壮大なwゲームを楽しんでいるのだろう?
551 :スモ:2010/06/27(日) 01:27:13 0
私の主客相互の世界観で成立される観念体系は
その内において「疑い」は生じないはずだ
「疑い」が生じるのは誰かの主客相互の世界観によって、
その「ねじれ」が「疑い」の原因(源泉)となる
これだと先述の2つと適応しないか?
「超越観」を導く必要はない・・・
いや、正しい
「普遍性」や「超越観」とはなんだ?
それは私や誰かの世界観の総体じゃないか
そこからそんな概念が生まれるんだ
552 :スモ:2010/06/27(日) 01:30:05 0
>>550 その「情報」は真実の謂いだろうけど
その根拠をどっから持ってくるんだ?
553 :スモ:2010/06/27(日) 01:43:21 0
「私や誰かの世界観」=「普遍性」や「超越観」
とは簡単には言えないか
ただ、少なくとも左項が右項の源泉とはいえそうか
でもこれはあれか、
独我論なら「普遍性」や「超越観」は不要ってことか
だとすると、
なぜ、「非・独我論」(「普遍性」や「超越観」)があるといえる?
w
なんかまた戻ってきたぞ
今、自分が冴えてる気がしたがオレはおかしかったのか?
554 :スモ:2010/06/27(日) 02:07:37 0
私は誰かを担保するために「普遍性」や「超越観」を持ち出すのか?
それはおかしい
しかし「普遍性」や「超越観」から「私の世界観」や「誰かの世界観」は導き出せないだろう?
私も抄録氏も唯意味氏もンドゥール氏も「存在する」はずだ
しかし「存在する」とはなんだ?
「私が存在する」とはなんだ?
私とスモ氏は位相において異なっっている
「わたし」がスモ氏も抄録氏も唯意味氏もンドゥール氏も見つめているということだ
しかし、このスモ氏における「わたし」はどうしても、抄録氏における「わたし」と接点をもたない
スモ氏における「わたし」と抄録氏における「わたし」は同じ本質だ
そう言いたくなる
しかし、そんなことを、どうやって、できるんだよ・・・・
でも、オレはいいとこまでいってる気がする
しかし(しかし、ばっかだなw)、これ以上進めるか?
555 :スモ:2010/06/27(日) 02:16:00 0
なにをオレは独りよがりに飛ばしてんだ
このスレの主旨に戻そう
556 :スモ:2010/06/27(日) 02:23:21 0
独我論者は疑う対象を見いだせるか?
557 :考える名無しさん:2010/06/27(日) 04:11:23 0
「確実であるということ」と「誰もが疑いえないこと」は同じ事ではない。
「誰もが疑いえないこと」が分れば、それを論じても反論される余地がないだけだ。
逆に言えば、自らの判断を論じても反論されたくないので、確実さ・保証を求めるのだ。
「そういうことだ」「こうしても構わない」と自分が判断しただけでは何ら問題は生じない。
判断した事を行動に移す事で不具合や困った事が生じる可能性があるという事が「問題あり」なのだ。
558 :抄録 ◆xOLbFG9QNU :2010/06/27(日) 10:52:23 P
>>540 いや、極度の寝不足でね。
このレスの時にも意識朦朧で、その時には全てが分かった気がしたが
ちょっと寝て起きると自分でも何を考えていたのかさっぱりで。はっはw
多分こういう事を考えていたのです。
懐疑する刹那には、その懐疑行為(能力)自体は主観に属し、懐疑できない(しない)。
また、懐疑とは本体的には妄想とは区別され、
ある客観的観念Aを懐疑する場合、想定可能かつ有意味な客観的観念B、C、・・・を仮想し、
いずれが合理的なのかを図る行為であろう、と。
しかし何をもって合理的なのか。
559 :抄録 ◆xOLbFG9QNU :2010/06/27(日) 10:54:03 P
歴史的な事件と科学的な事象とは話が異なると思うが、
貴方の言いだしたサッカーの合の話に乗っかると、
サッカーの試合結果なる歴史的事件レベルの話を懐疑する場合、
懐疑する対象が、「事件の内容」なのか「事件そのものの有無」なのか、
いろいろ考えられてしまうが、大きな事件の内容は小さな事件の有無の集積に解体することがある程度可能でしょう。
なので、話を「あの試合の有無」に限定すると、これを懐疑する場合は通常、
あの試合が「あった」と「なかった」の間でどちらがより合理的なのかの思考が行われる。
このとき、試合そのものではなく、試合を含む「脈絡」の中で、「試合」なる事件のピースを
「はめ込む」か「はめ込まない」かでどちらが全体の脈絡が通じるかどうか、を思考する。
作為的に情報を統制する場合、作為的な行為は、それ自体が事件となる。
世界が事実(事件)の総体であり、、各事件は時空間的に有限に設定できる(とする)。
事件レベルに於けるこの世界の時空間の次元と尺度の枠組は決まっている(それ以外に想定できない)ので、
事件レベル(ミクロレベルでも宇宙レベルでもない)に於ける絶対(=必要十分)の情報収集力を想定し、
世界の連続性を考慮に入れれば、世界の全事件の脈絡の中に「ある事件」落とし込める可能性は、
「ある」か「ない」かのどちらかとなる。
懐疑とは、限られた情報の中で、主観が合理的な判断を求めている訳で、
主観そのものに確かさも不確かさも無い。
懐疑は主観の曖昧さを懐疑しているのではない。
そこにあるのは「情報の不足、能力の不足」である。
しかし脈絡を壊すことなく、世界の全ての事件をでっち上げることは可能ですと?
ふはは。
560 :抄録 ◆xOLbFG9QNU :2010/06/27(日) 10:59:14 P
あと
目の前のリンゴがあるかどうか、なんて類の懐疑は俺にはナンセンスな話。
リンゴは「ここにこうしてある」という意味で、「必ず有る」
リンゴが無いとして、ここにあるリンゴをどうするつもりなのか。
リンゴが夢かもしれない?
夢と覚醒時を区別できる状況に於いて、覚醒時が夢であるなど馬鹿げている。
夢のダブルスタンダードである。
リンゴの実在性?
それを考える前に、生きる為に目の前のリンゴを食え。
「このリンゴ」は食えるが、表象とか質量とかエネルギーとか、そんな言葉は食えない。
物質は物質によってのみ成立し、実体性を伴う場合に「のみ」、物質の地位を得る。
しかし実体の正体は。。。。言えそうな言えそうにないような。
しかし間接的には(気付き程度だが)言及可能と思っている。
561 :唯意味論:2010/06/27(日) 11:13:48 0
>>552 いや“真実”ではない。
それが文字どおりの真実である「根拠」など私は知らない。
真/偽や勝/敗は「規則に従って認定される」と述べているだけ。
規則がなければ、真偽や勝敗ゲームは成立しない、と言ってもよい。
この場合も、サッカーの勝ち/負けに関する決め事、情報の流通に
まつわる一定のルールが成立していないと、ゲームの勝ち/負けも、
伝聞の正/誤も決定不能に陥ってしまう。
規則は、人事ゲームに参加するものにとっては、スモ君が連呼する
超越性を帯びている。しかし、この規則は人為の産物であり、脆い。
なによりも、その正当性をその規則に従って証すことができない、
という致命傷を抱えている…。
562 :ンドゥール:2010/06/27(日) 11:45:49 O
561
決定不能(決定可能)、正当性
これらの概念が真理には不可欠であるという前提の上に君の意見は成立している
だが、その前提は果たしてどれだけ正しいのだろうか
563 :ンドゥール:2010/06/27(日) 11:48:38 O
560
君が今、リンゴと思って食べたものは“実は”リンゴじゃなかったんだよ
“実は”新種のナシなんだよ
答え方は二種類
「へー、そうなんだ、知識が増えた」
「聞く耳はない、これはリンゴさ」
564 :ンドゥール:2010/06/27(日) 11:57:14 O
539
AまたはnotA
このルールは排中律と呼ばれる
われわれが使用する常識的な論理(形式論理)は排中律を含むが
排中律を含まない論理体系(直観主義論理)もまた考えられる
まぁ、知ってるでしょうが