501 :スモ:2010/06/25(金) 19:34:21 0
>>499 わかるんだけどさ
>私(主観)が現象と相関していて、
>それを表徴し、思惟し、差異化(意味づけ)しているだけである。
それがどうして可能なのか?を問うてみたいのよ
なぜそれができるように「顕れる」のかを
>主観(私)と客観(現象)は相互依存している
>存在(ある)は主客に先立っているはずである
主客の相互依存している世界観から、主客に先立つ超越観が推考されるとして
その超越観から、その主客相互の世界観を推出できないと
その超越観とその世界観とはまったく関連されない(というか超越観なんて不要だ)
言い換えれば、
主客相互の世界観の土台に存在(ある)という超越観が推定されるようには両者は重ならない
昨日考えていたのはこういうことだ
もし神が、その超越観でもって世界を見るとき
どうやって個体(または規則、総じて世界内事象)を判別するようなことが可能か?と
もちろんそんなことする必要はないんだろうけどさw
意味とか概念とか、主客相互の世界における「ねじれ」による産出だとして
それが「そうなる」仕組みをどうやって、一元的だと推設してしまう超越観から導きだせる?
しかし一元的とはどういうことか?
無限であったり無規定であることは一元的ともいえる
そこからどうやって、有限や規定を、唯物的であったり観念的であったりを、存立させられる?
502 :スモ:2010/06/25(金) 19:52:59 0
この超越観ってのは微妙だなあ
一元的に解釈しようとするところに、
何か大きな勘違いの陥穽になってるような気がする・・・
503 :考える名無しさん:2010/06/25(金) 20:50:03 0
>>497 簡単に言えば、客観という概念が実は成り立たない、という話になると思う。
それがどうしたって話に思えるだろうけど、例えば価値の基準とは客観的な物に置かれている事が多い。
客観的な意見、客観的に正しい物を集めた学問、あるいは人類の普遍的な目標等々。
懐疑論からすれば、それらは全て特別な意味を持たない。
主観的な意見、例えばあの時食ったソバが美味かった、なんていう思いと等しい価値しか無い。
504 :唯意味論:2010/06/25(金) 20:53:46 0
>>スモ君 鋭いですね。
酔っているので、明日、答えられる範囲でそうします。
なぜ可能か、ではなく、そうするしかない、ということです。
現に、そうしている。そのいみで、私が神でないことは明白。w
一元論は、疎外的産物。それは私が二元論だからです。
505 :考える名無しさん:2010/06/25(金) 22:45:00 O
「客観的」とは回答を単一に固定することを言うのか
ある人が「このそばはうまい」と言ったとして
それは客観的に考察するに値しないのか、、、
回答を単一に固定できるような設問など一つたりとてあるのだろうか
いろいろと疑問ではある
506 :スモ:2010/06/25(金) 22:57:34 0
唯物論を否定するためにはどうしたらいいか?
りんごは「辛い」のでなく「甘い」のならば、「辛い」は否定される
同じように、
りんごは「物質」ではなく「観念」だから、で否定されるのだろうか?
いやちがう、
りんごは「甘い」し、りんごは「赤い」と同じように
りんごは「物質」であり、りんごは「観念」であると答えるのが正しいのか?
いやいや、
りんごは「甘い」し、りんごは「果物」であるというように
りんごは「物質」であり、りんごは「観念」であると答えるとすれば
それは含意されることで唯物論の否定にはならない
以上のどれが、「物質」と「観念」の関係として正しいのか?
しかし、「りんごは甘い」から「りんごは辛い」は正しくないと判断する根拠はなんだ?
そのようにして、唯物論が正しく観念論が誤りであるとはどうやって判断できる?
「りんごは甘い」し「りんごは果物」であるように
物質と観念のどちらが先立つ(本質的or根源的)と問えるのだろうか?
しかし「りんごは甘い」ことを知ってるからこそ「りんごは果物」が導き出せるのであって
「りんごは果物」から「りんごは甘い」を導き出せるだろうか?
抄録氏は「りんごは書物」から「りんごは甘い」を導き出せない
だから、「りんごは書物」と想定することは宙に浮くし疑いにならないと指摘してきた
以上は今思いついたことのやっつけ、です
サカー見る
507 :考える名無しさん:2010/06/25(金) 23:42:59 0
観念論は、人間と言う素朴実在を
観念的にどのように処理するのだろうか
人間と言う「観念」が先行するの
508 :スモ:2010/06/26(土) 01:39:59 0
コートジボ残念…
結局、「りんごは甘い」からしか始められないのか
「りんごは果物」「りんごは書物」「りんごは絵画」・・・etc
そこから「りんごは果物」を選出できる理由は見つからない
それを決定できるのは「りんごは甘い」ということだけだ
しかしなぜ、「りんごは甘く」「りんごは果物」の関係が立ち現れるのか?
どうして「りんごは辛く」「りんごは書物」の関係としてではないのか?
そして「りんごは甘い」ことは本当に「りんごは甘い」のか?
「りんごは甘い」から始めて「りんごは甘い」を捨てたときに何が残るのか?
私は一体何を言ってるのかわからなくなってくる・・・
>人間と言う「観念」が先行するの
そこからいけそうかな・・・
うまくやれそうな気がしないでもないが
509 :考える名無しさん:2010/06/26(土) 02:50:51 0
「りんご」は甘さがあり、栄養のある食べ物。
このようなことだけなら、それは目的や価値の記述なので、
観念(考えた主観的な事柄)と言うことになるのだろう。
しかし、重さや容積、形質の遺伝がある物体としての側面は、
人間存在にもそのような側面があることは否定できないので
「感じ、考え、判断しただけのもの」として処理できない。
世界を考えようとすればするほど、世界像にしかならないという・・
510 :抄録 ◆xOLbFG9QNU :2010/06/26(土) 03:00:22 P
>>503懐疑さん。
貴方が「主観の不確かさ」として根拠とする、蕎麦の美味いまずいは、
>>40氏、及びスモ氏の一連の考察により反駁されていると思う。
511 :考える名無しさん:2010/06/26(土) 04:12:14 0
>>510 ストレートに言ってしまうと、まったく意味の感じられ無いレスを持ち出されたなあと…。
二重の懐疑がどうこのうのと、意味の無い説に終始している>40ですが、
懐疑論の軸は普遍性の否定です。普遍性は主観には無いものですが、主観が普遍性を持つ、と言われたいのでしょうか?
512 :抄録 ◆xOLbFG9QNU :2010/06/26(土) 04:28:22 P
>>511 私が「主観が不確かであることの根拠」を求めたのに対し、
貴方は、丼だか蕎麦だかが、昔は美味いと思ったが、今食うと美味くもない、
なる事態を例示され、
>>40は貴方の例えを無効化することに成功している。
貴方は「主観の不確かさ」を示す為に、別の根拠を提示する必要がある。
513 :抄録 ◆xOLbFG9QNU :2010/06/26(土) 05:02:35 P
>懐疑氏
以下は
>>40の焼き直しでしかないのだが(ちょっと違うが)
「蕎麦Aが美味いと思っていたが、今食ってみると不味い」
貴方の主観内で「美味さ」と「不味さ」は“同時には”成立していない。
(まあ文芸的には「美味いが不味い」とか、何とでもへんちくりんな表現が可能だがw)
貴方の中に成立する「今食っている丼Aの貴方にとっての不味さ」は、
その不味さがどの程度であれ、完結している。
貴方の言う、美味い、不味いの違いは、時間差による状況の変化に置き換わり、
主観・感覚自体の判断の確かさ、不確かさとは別の話となる。
どうですか?
514 :抄録 ◆xOLbFG9QNU :2010/06/26(土) 05:41:05 P
おお、ついでに思いつきました。
「全く同じように作った蕎麦ならば今も昔も同じ味がする場合に、
これが主観が確かであるということである。」
とするならば、これは客観を前提としている。
515 :考える名無しさん:2010/06/26(土) 09:02:53 0
>>512 特に無効化されているとも思わないんですが…。意味が感じられないとはそういう意味です。
ソバが美味い、という確信と不味いという確信は同時に持ち得ない事が、主観が確かであるという
話には繋がらない気がしますが…。何故なら、ソバを食べたという事(時間)を懐疑できるからです。
>主観・感覚自体の判断の確かさ、不確かさとは別の話となる。
判断の確かさとは、何を基準にして確かだと言っているのでしょうか?
それが自己判断に因るものなら、結局曖昧なんだと思いますが…。
「私」から見てこう、としか言っていないわけですし。
516 :考える名無しさん:2010/06/26(土) 10:24:20 0
というか
そんな例示するような話でもないと思うんだが懐疑論ってw