491 :スモ:2010/06/24(木) 20:58:26 0
「りんごは甘い?」と疑うことは
例えば「りんごは辛い」を想定しなければいけない
「甘い」と「辛い」は同クラスの差異となる
しかし、
「りんごは甘い?」と問うことは
例えば「りんごは赤い」と答えることができる
この「甘い」と「赤い」は異クラスでの差異となる
「りんごは甘い?」と疑うことで、「りんごは赤い」と答えることはない
いやちがう、
>「りんごは甘い?」と問うことは
>例えば「りんごは赤い」と答えることができる
ここはおかしい
例えば「りんごは果物」と答えることが正しいか?
「甘い」と「果物」の場合は異クラスでの同定となる
「疑う」ことは平行のベクトルであり、
「問う」ことは垂直のベクトルである
強引にそんな比喩逃れで締めくくろうか?w
>>512の続き
では、
「りんごは物質?」と疑うことはどういうことか?
「物質」と「観念」は同クラスの差異といえるだろうか?
それとも、
物質」と「観念」は異クラスの差異といえるのだろうか?
いやはや、異クラスでの同定であるとしようか?
「りんごは情報である」
「りんごは規則である」
そう答えることはいったいどのように捉えたらよいのだろうか?
ぜんぜんしっくりいかない・・・用語も論考の仕方もアバウトだなこれじゃあ
492 :スモ:2010/06/24(木) 21:06:38 0
抄録さん
気のせいですよ
でもね、貴方がギャフン!!とするような理解をさせられないかなあ、と狙ってたりはしますけど
まあちょっと、というか私の頭じゃかなり足りません
(ぼくが正しくて貴方が間違っている、ということの意味ではありませんよ)
493 :考える名無しさん:2010/06/24(木) 21:22:15 0
>>488 その解釈で合っています。しかしまさか主観と客観の概念で違いが出るとは思いませんでした。
主観が不確かであるという話なら、見間違い、聞き間違い、印象の違いなどがあげられると思います。
簡単な話をすれば、「この丼は美味しいと思っていたけどやっぱり不味かった」という事なんかがありますね。
普遍的に美味しいわけでは無い。しかしながら、不味いという判断もまた何時覆るか分からない曖昧なものです。
逆に言えば、主観が確かであるというならば、主観の反語として捉えられている客観とは何を指すのでしょうか?
広く一般的に言えば、主観的な意見は曖昧であるとされ、客観的な意見は正しいとされていると思います。
その常識を否定するのが懐疑論だと思います。
>客観があったとしても知り得ないだけ、となり
これは客観という概念からいけば不備となるでしょう。知り得ない物が確かにあるとは言えないわけですから。
494 :スモ:2010/06/24(木) 21:28:52 0
経験するとは「わたし」が他者と関係することだ
りんごと出会うことで「りんご」を知るのではない
「わたし」と「りんご」との「関係」を知るということだ
わたしのりんごとの関係は、
誰かのりんごとの関係とは異なる
その対象は同じであって同じりんごを意味しない
私がその対象と出会ったとき、それを「ふじこ」と記した
誰かがそれを「みねこ」と記す
そして私と誰かは、「ふじこ」と「みねこ」を「りんご」として共通することにしたのだ(そのことの不思議)
しかし、それはあくまで規約であった
「ふじこ」と「みねこ」はちがう
けれどもそのことは風化してしまった
今では「ぶどう」と聞けば皆が共通する「それ」(ぶどう)があると思い込むようになった
「ぶどう」が在って、私と誰かが確認するのではない
私たちは「ことば」に囚われてしまったのだ
「ことば」は私たちから離れてしまった
私たちが「ことば」を操ってるのでなく、「ことば」が私たちを使役するようになったのである
でもでもそれはナンセンス・・・
「ぶどう」は在ったのだ
それですべて解決される
しかしもちろん・・・
ま だ ら ん よ !!