431 :考える名無しさん:2010/06/20(日) 11:28:01 0
>>430 簡単な話で、その時どう思ったかですね。
主観にとって、それは金塊では無く黄色いゴミに見えたというお話。
色々(主観的に)確認してみても、やっぱり黄色いゴミにしか見えない。よって黄色いゴミでしたと。
どっちが錯覚なのか、それを普遍的な意味で確認する事は出来ないというのが懐疑論です。
ですから、客観的にどちらが錯覚か、と言う懐疑は永遠に解消されないわけです。
>430の疑問は「本当は」どうなのか、という考え方に思えるんですが、
そういう普遍的な本質もまた客観同様に否定されています。
432 :考える名無しさん:2010/06/20(日) 12:02:21 0
相手や自分が困ると言う想定が無ければ、疑いに陥ることはない。
自分が主張する事で相手にされない事態になるのは困ることなので、
「言う・教える・主張する」ことに慎重にならざるをえないだけである。
「言える」という表現は、主張しても困ると事態にはならないという確信である。
確信したところで、それを主張しなければ、困ると言う事はないだろう。
それが間違いがない事の証明を求める必然性もないのである。