実践理性で異なる反省概念
教育 | 社会 | 自然 | 神
意志 | 責任 | 原因 | 創造
カテゴリーの条件の関係は反省概念はそれぞれの概念で区別している。
教育においては意志があり、社会においては責任があり、自然においては原因があり、
宗教においては創造がある。この概念の区別により、どのような世界において条件を
考えていると判る。要するに、創造というと端的な存在があるということであり、責任が
あるというと社会的なことを必要としているのであって、原因というと自然な成り行きを
説明しているのである。そして、意志というと私自身にある考えなのである。
本来このような順列であるけど、読みづらいのは私自身もこうやって表現するまで
考えもしなかったからであります。
どのように関係を反省するのだろうか。本来、関係にはまだ、反省の区別がない。
本来的なことが存在というものに行き着いたところで、反省をする。教育と神がひとつで
あり、区別のなかったところに、原因はどこからであるという自然的な反省がなされる。
別のところからのものを原因であるとは言わないのである。自然的な原因が確かであっ
た後に、責任の概念が考察される。社会的に相応しい責任の取り方がある。社会的に
相応のものにそれ以上の責任は取らない。担うべき事柄を確認した後に、意志の概念
が考察される。責任や原因があって、創造を考察しても、人間に意志がないと、順次、
社会的な良さや自然的に良い方向を考えるのである。
本来、一つであった。存在に行き当たると、反省という区別がされる。存在から逆に、
一つのものを自然と責任と意志に区別していくのである。
これが私たちの持つ反省概念の論理構造なのである。
極端な責任の概念
私たちは意志がないのに責任を取るべきであると求められる。
私たちの言い分からすると、意志が無いのに責任を取るというのは不思議である。私自身
に求めていながら、私自身の意志を無くして、まだ、責任を問えるというのである。だが、責
任は私たちを問題にしていない。責任は社会的な事柄であって、社会的な事柄に従って、
責任を取りさえすれば、私自身の最も深い部分で了解を必要としている訳ではない。
責任は社会であって、教育ではない。
それなので、社会に協力できるだけの意志があればよいのである。
私たちは関係の概念を反省する。
責任の概念は原因を追求する役には立たないのか。
反省を単なる関係のカテゴリーと同一視していると、条件を責任の概念に置き換えてしま
う。
しかし、反省の概念は、Cならば、Mになる、という条件の論理的な進行を持たない。社会は
関係を自然に区別する。つまり、責任は関係が責任の庇護において勝手に論理展開してして
しまうものを原因という事として区別するのである。原因の無いものには責任は取りません。
ただ、私ならば、こういった状態を考えているというのである。
こうして、単純な条件の進行に反省を加えて、責任を取るのである。
宗教は三途の川を信仰している。川の流れがあり、川の流れを挟んだ両岸を横断する。
この世を此岸(しがん)といい、あの世を彼岸(ひがん)という。三途の川には懸衣翁(けんえおう)
・奪衣婆(だつえば)がいる。三途の川を渡るものは六文のゼニが掛かっていることであり、金が
掛からないことであると衣服を脱がす。金の掛からないものは奪衣婆が衣服を脱がし、懸衣翁
が衣領樹に衣を掛ける。脱いだ衣服は木の枝に吊下げて垂れた分だけ罪の重さが判る。
三途とは地獄、畜生、餓鬼の三悪を表した流れである。
此岸と彼岸のどちらにいるのか。三途を渡るのに必要な六文が掛かると彼岸行きである。
金が無くても衣服を動かしていることを考えるとまだ此岸である。だが、金が無く、衣服が無い
ものは彼岸にいる。六文のゼニが掛かっていたことではないとすると彼岸である。
こうして、どちらであると決まる。
慰謝や復讐
慰謝や復習が同じやり方で行うとすると、刑罰であって、慰謝や復讐ではない。
悪意があるとしても、意地悪であるけれども、復讐にならない。
或る限定した事柄において同じく応報する。
幾つも違う方法があるのに、問題となった同じことがらで報いを受けさせる。
例えば、社会制度に限っていると金を与える。
どんな観念において生きていくのが心地よいか、暮らしやすいか
(教育、社会、自然、神)
量において 原則、数学、NO.1、オンリーワン、認識番号100番、財産の量、何人いるから、幸福指数、唯一の神
連続において 歴史、本物、伝統、勤続、血筋、、人生の目的、筋物、キッカケ、源流、天皇
対立において 判断、相対性理論、趣味、裁判、集団、派閥、性別、セックス、重力、陰陽、幾人かの神
同じにおいて 理性、必要、自立、法、規定、所属、定職、会議、お揃い、幾何学、神は同じこと
内外において 仲間、新入り、村、よそ者、一門、外様、体面、内心、
様相において 形而上学、義務、常識、読み書きソロバン、詩、風流、経典
大体、金儲けなり、仲間なり、量的な話をしているのか、対立の話をしているのか、原則
は左記のことだ。原則からすると辿るべき運命は大体こんなものだ。
現状を見て、これからありそうなことを考えると原則を切り替えて考えたほうがいいかも
しれないとなる。
普段は、様相で生きていて問題がなさそうだね。
知る勇気
知る勇気は自分自身を損なうものであると自立であるが、自分のしたことが悪く思わ
れると同情であるが、自分のしたことの影響が将来悪いものであると客観的というのだ。
例えば、社会で健康診断をして悪い部分を知りたいというと自己管理というのであって、
相手に損害を与えて相手の身になって考えてみろと思い遣りを求められるのであって、
影響を数値化したり、結果を集めて、客観化するというのだ。
自立は義務である。同情はしたほうがよい。客観的は事実である。このように表現する。
何故、自立するのかというと、自立しなければならないということであって、それだけの
ことを考えているので、他に必要としない。
同情しなければならないというと、私か相手かのどちらも考えよというのでなくて、
私と共通するものが相手ではない、共通しない相手の事情を知ろうとすることではない。
私と相手の共通部分を含めて考えたほうがよいというのだ。
客観的は私と相手の共通部分でないものがあると示すものだ。私か相手かというと、
私と共通部分を差し引いたものが相手である。
他の全てを考えても、殆ど関係ないし、知る勇気でもないようだ。
選択的な実践理性の課題
実践理性の課題は行為と責任と構造である。
私の行いは責任を伴う。受動されたもので作られる構造を考える。構造
から考え得えるものを行為する。
しかし、構造から考えて満足できないものであると不可能である。
これが実践でものを選ぶところである。
どのように構造を考えるのか。先取られた構造から逆に私の行為の可能
を考えるのだ。ただ、どのような特徴が構造になるのだ、また、そういったこ
とでないしのだし、構造と対応して重要とするものがあるはずである。重要
なものがあるので、この構造には不可能となるのだ。
構造をどこまでのことであるという限界をどうするのか。決定に向かう時は
別なものであったのに、構造から考え得る重要なものと差があるのは何故か。
それらに応えると、こちらのほうが良いというのである。選択的な実践理性
の課題はこのプロセスを形にして、どれからやっていくかを整理することである。
そうすると、どれもやらないでおくという不具合が解消する。
これが選択的な実践理性の課題なんです。整理して報告しましょう。
『 実 践 理 性 批 判 』_
「 |
原理論 |
___|___________ |
| | |
| | <質> |
| _分 析 論 |
| 「 (善悪の)概念, |
| トーa(原則) , b(範疇論) |
| | a'量,b'質 |
| | c'関係,d'様相 |
| L_ c(1動機, 2 解明) |
| |
| |
弁 証 論 方 法 論_____」
<関係>__|__ (結び:宇宙/道徳法則) <様相>
| |
| a理性一般の-(純理の弁証論)
|
b最高善の概念規定#1-9
__|___
| |
a'#1-3(二律背反, b'#4-6(不死,神,自由の要請),#7(自然学/道徳学)
徳と幸福)
.
↓
先 験 的 弁 証 論
_____________|___________
| |
| 理 性 概 念
| |
| | a理念一般
| |
| _______|_____
| b先験的理念 | c体系
| |
弁 証 的 推 理
|
| a誤謬推理
| | a'(霊魂)
| ーーー +ーーーー
| b'(心理学)| c'(宇宙論へ)
__________|_____________
bアンチノミー | c理想
宇宙論的理念#1-9 |
#2 a,起源| b,合成 | |a'(理想一般)
ーーー+ーーーー|ーーーーーーー+ーーーー
c,自由| d,必然 | b'(先験的理想) | c'(#3-7)
#9(理念解決#1',2' | 付録:(目的)
3',4')|
_『 純 粋 理 性 批 判 』
「 |
先 験 的 原 理 論__________ |
| | |
先験的感性論 先験的論理学 |
<量> | / | |
| / 分 析 論<質> |
a空間_|_b時間 / _|__概念分析 |
/ | ,a(範疇論) |
/ | b(演繹), |
/ 原則分析 |
/ ,a(図式論) |
/b(分析/総合,-体系) ,c(現象/可想,物自体)|
/ a',b' 付録:(/反省) |
/ c',d' |
/ |
<関係>弁 証 論 先 験 的 方 法 論<様相>
__|_理性概念 a(訓練) b(規準,#2最高善)
| ーーー +ーーーー
弁証的推理 c(建築術) d(歴史)
,a(誤謬推理) ,a'(対象)
b(アンチノミー),c(理想) b'(起源),c'(方法)
L______________」
↓
拡大:
>>54
<関係>目 的 論#61-91
__|___
| |
| 分析論#62-68 <質'>
| 実質 ,内的
| /形式#62,/相対的#63,規定/反省#65,68,有機体#65
|
<関係'> 弁証論#69-78 <様相'?>
| 付録:方法論#79(体系)-91,最高の善=自由#91
__|__ |
| | スピノザ#73,80,85,87_ヒューム#80_道徳神学#86
| | |
a'(二律背反), b'(体系etc)_#総注(「関係」''')
#69-73 #72-78
<関係''> <様相''>
記述は基本的に、量→質
/
関係→様相の順番。
『 判 断 力 批 判 』
_________|___
| |
| __美 学___ <質>
| 「 |
| | 分析論#1-54<質'>
| | <量''>__|___<質''>
| | b崇高#23-9 a美#1-22
| | (数学的#25-7) b'(量''') ,a'(質''')
| | | #6-9 ,#1-5
| | (力学的#28-9 ) c'(関係'''),d'(様相''')
| | | #10-17 ,#18-22
| | |
| |<関係''>c演繹#30-54_d共通感覚#40
| |
| <関係'> L_弁証論 #55-60
| |
| 二律背反#56-7_付録:方法論×#60
| <関係''> <様相''>
<関係>目 的 論#61-91
↓
>>56
三批判書
|『純粋理性批判』
>>55 | 感性論 分析論
| (カテゴ
| リー)
| 弁証論
>>54 方法論
|(アンチ
_________|__ノミー)______
『実践理性批判』 |『判断力批判』
>>57 >>52 分析論 | 美学
(カテゴ | 分
リー)| 弁
弁証論 方法論 | 目的論
>>56 (アンチ | 分
ノミー | 弁 方
最高の願望
私たちは願い事を考える。願望は二通りある。一つは、願望は神に至るまで続くものである。
二つつはもし神に願いを祈願するなら、実現するということである。前者は普遍、永続的なもの
への願望である。後者は望みどおりなり得るということである。
だが、前者は対立物や矛盾があり、永続的なものを見出すのが難しい、普遍というのは哲学
の概念や理性の意味に従わせるものがある。後者は折角神に願いを適えてもらうのだから、
最高のものを見出すのが難しい、後者の最高のものというのは、不幸なものではなくなる事
を最高の概念で表現する、或いは、人間に根ざした諸願望の最高のものを望むのだ。
こうして、最高であると考えるのであります。
これどこのコピペ?(笑)
実践
○速射形
相対以前にある条件を用意して、量を大量に相手にする。
○形式
どれにでも当てはまり、他に使えないものは除き、一致する形式を作る。
どれだけ量があっても、一定の形式を素早く、労力無く用意して、後は、
付け足しの変化である形式。
関係の構造論理 上下前後スケールの思考構造
私は建築物の付属美品の仕事である。
付属美品は大変だ。
そのままでは物足らないものがある。
良いものに変わって、末永く続く。
↑
定言
選言 →
仮言
↓
※定言が決まりなので、根拠であり、行為者。それ以前に無いし、他のものが
行為者になるんだ。
理論の区分は理性批判の研究で行った。
私とは、観念の分類でどの位置に占めるべきか。
私とあなたにおいて、同じと違う、これのどちらに占めるべきなのか。
私が違うを占めると、同じところには居れない。何か私には納得いかない
ところがあって、何かが違うという考えに悩む。
私は違うので、同じようなことに対立する。同じところには居れないので、
同じようにしているところを不要であると考える。または、同じところから出て
いけないといけない。
私が違うを占めると、虚しさに悩む。
私とあなたにおいて、あなたが定言である。これは相手が必要である。
あいての規則を知る必要があるので、私は尋ねるべきである。
あなたが必要である場合、私はどちらでも良いという扱いになる。
だが、あなたが不要だとしたらどうしましょう。
あなたは知らない、教えない、という場合がある。失敗すると、
不要だから、失敗したのだということになってしまう。
勝手である、立場は成功に依存している。
あなたが必要であると、私はあわただしい。
観念のスケール (理性→意味→議論→形式の完成のループ)
人生スケール (美→子供→教育→成人のループ)
観念を考え、子供を作って将来何を為させるのか。
ループはその中を循環するので、幾ら考えても同じ。ループを越えて
何かやらせよう。
例えば、エロスの神殿を作らせる為に観念を作り、子供をなそう。
観念に建築は素晴らしい、エロスの神殿があったらなあと子供に刷り込もう。
そうしますと、美を愛し、子孫繁栄して、町並みが美しく、エロスの神殿を作る
ようになるんです。
実践的なカテゴリーの批判
経験 量 関係
道徳 様相 性質
実践的なカテゴリーの批判
序
理論では経験と合理の批判がなされた。私たちは実践でも批判を行い、
むしろ、異なるものと実践的な対立をしている、道徳と経験である。
経験は幾つの量を経験をした、経験は関係があったと表現する。道徳は
それ以外は考えられないとか他のものは駄目だと規定する。道徳は名前
をはっきりさせる必要があるのである。
INDEX
実践的な経験は道徳を必要としない
実践的な経験は相対的であり、道徳は名詞を確かにしなければならない
本論
以下同文
怒声は順当か。
怒りの感情は破壊活動となって物を壊す働きをする。
これは暴力といいます。
怒声は逆境か。
怒りの感情を向けられると人は媚態を見せる。
だが、恥ずかしいと思うと、反対の感情を示して、怒りや自分自身の範囲をしっかり定めること
で名誉を守る。
母音に怒りを込める声は、ルールを私から他人から引き取って自分に引き付ける働きがある。
怒りの声を挙げて、私に気を使って満足な笑みを浮かべる人は自分に引き付ける逆方向を持
っている。怒らない人や自分の範囲を区切らない人は彼の為に働くのだ。
これは見栄といいます。
実践理性批判
<特記仕様>
一部:純粋実践理性の原理論
一遍:純粋実践理性の分析論
一章:純粋実践理性の原則について
二章:純粋実践理性の対象の概念について
三章:純粋実践理性の動機について
ニ遍:純粋実践理性の弁証論
一章:純粋実践理性一般の弁証論
二章:最高善の概念規定における純粋実践理性の弁証論について
ニ部:純粋実践理性方法論
<立面図>
┌──────────純粋実践理性の原理論─────────┐
│┌───純粋実践理性の分析論────┐ .. │
││純粋実践理性の原則について .│ .. │
││純粋実践理性の対象の概念について ...│ .. │
││純粋実践理性の動機について .│ .. │
│└─────────────────┘ .. │
│┌─純粋実践理性の弁証論───────────────┐. │
││純粋実践理性一般の弁証論 │. │
││最高善の概念規定における純粋実践理性の弁証論について │. │
│└──────────────────────────┘.. │
└─────────────────────────────┘
┌─────────純粋実践理性方法論───────────┐
│ . │
└─────────────────────────────┘
結び
┌─────────────────┐ . ┌──────────┐
│ │ │ │
│ │ │ │
│ │ │ │
│ │ │ │
│ │ │ │
│ │ │ │
│ │ │ │
│ │ │ │
│ │ │ │
│ │ │ │
─┴───────┐ .┌──┴─┴──────────┴─
. │ │┌──────┐
. │ ││銘板(イマヌエル) │
. │ │└──────┘
. │ │=結びの郵便口=
. │ │
. │ │
─────────┴───────┴─────────────────
┌───────────────────────────┐
│現場名:純粋実践理性批判 イマヌエル・カント様 邸改修工事. │
└───────────────────────────┘
目次
一部:純粋実践理性の原理論
二部:結び
三部:純粋実践理性の方法論
これですよ。それで、ですね
「ビューティフルな実践理性批判の目次」
一部:純粋実践理性の原理論
一遍:原則
一章:動機
二章:対象
三章:分析
二部:結び」
一遍:法・社会・自由の結び
三部:純粋実践理性の方法論
理論は善を目的にしているが、実践は善意であっても、善くならないものもある。
理論的には、善は全ての目的だが、理論に実践を考えると善は言い尽くせないものがある。
理論的に神が必ずしも善くならなくて、実践の為だけにあるとすると、善と神を含んだもっと良い
ことが必要になる。だが、神は全てを含めることなので、目的にはならない。
善の理論に対立するものが実践にある。理論の善と実践の目的を含めて神だというのだ。
そうすると、実践の目的は何かがあるというのだ。
目的の作り方
逆論法
逆論とは私に向かうものである。
持っていることに対して考える。これが良いというと、遠大であるところからであることが必要だ。
順論法
○確実な推理法
原因と結果の順列で、同じ条件である。同じことを接合させて、着実に進むものである。
逆順論法
先ず、逆論として遠大なところから始めると、より価値がある。
より価値があるものに一致する条件を着実に接合させて進む。
順逆論法
手当たり次第同じ条件を一致させて着実に進む論法。
同じ条件に接合する、より先の結論を探して来る。
目的の区別を付けるとこれだけのはずだ。
より残り易いというのは順逆論法である。快や財は逆順論法にみられる。
人生の反省
逆る/順路
やる/やらない
一回/全く無い
同じ/違う
纏まりのない選択
実践的な選択は他方のほうが良かったのではないかという疑いを持つ。分岐点からしたら良いこと
を思い巡らせるのであり、一方、本当にこれで良かったのかというのだ。
これは私の観念を欠いた選択である。選択に私の観念を欠くと私のしていることよりも、もっと
良いものがあったかもしれないというのである。
しかし、私のいない選択肢を証明しているのである。想像なり、常識が思い巡らせるほど私の無い時間
が有意義になるのだ。
私が選択するということは、どうすれば私は望みのものに辿りつけるというのだ。これが私は選ぶという
のだ。
私は選択するということが纏まりのある選択というのだ。
日本倫理教育概論
初等 義務教育。人に言われて考えること教えられる。行儀や悪いでしょと問われ、疑われる。
中等 義務教育。規律訓練。規律を人に与えられて守らなければならないと教えられる。
高等 専門教育。任意に、専門的な分野だけを与えられる。
大学 自由教育。専門分野を自由に学ぶ。
○チャート
誕生した子供→教育<初等(コアな授業)・中等<意味の授業>・高等(限定した授業)→大学(自由研究)>→社会
○小見出し 人間は子供から教育の現場に出る
私たちは子供が生まれてから教育を経て社会に出て働きます。日本人は義務と言われる教育制度に従っています。
義務は他人に望まれてしなければならないことを学びます。義務に似た自由な思考を必然と呼びます。義務により
私は知るのです。教育を修了して、社会に出るのです。
初等が無いと悪いのかと判らない、中等が無いとルールを与えられない、高等が無いと仕事を絞れない、大学が
ないと自由にやれない。
私たちは社会へ向かって力を向ける分野を絞って自由に活動することを目的にしているのです。
子供的な原則は何回もやるようなものを選ぶのだ
子供から、教育を受ける
すると、何回もやる教育したものになるはずだ
○美意識の小学校での達成目標 人に悪く言われないくらいのものに何回もやるようになる
○美意識の中学校での達成目標 ハウトゥーで何回もやれるようになる
○美意識の高校での達成目標 分類したものだけを何回もやれるようになる
○美意識の大学での達成目標 趣味の良いものを自由に何回もやれるようになる
大学は小学校でない、人に悪く言われない、みんながそれなりに良い
大学は中学校でない、経験したとか経験してないと言わない、仕組みを知っている
大学は高校でない、世の中のものを何から何まで楽しもうというのでない、力を使う分野を決めてある
つまり、大学は趣味が良いものを何回もやりたがるというのは、それなりに良いと同意をもらえて、
仕組みを知っていて、専門を踏まえているので、趣味が良いのを何回をやりたがるのだと。
,
契約と自由の社会
契約と自由は社会で公でやって良いものです。
契約は相互の寡占です。日本では、契約は契約内容を公的な機関が認めることです。
契約に名前と印を押して契約届けを提出します。中東では、証人により、相互の契約を結び
ます。お金を与えて、規則を作り、法則に対して従うものを契約という。
自由は感情です。お互いの感情は認めます。
お金を与えない、法則に従わないもの、これらは契約違反です。法則以外の要求は契約以外で
はありますが、違反とは限らない。中東的な契約は、優越者により左右される、優越者次第で契約
外のものにされる。お金を与えない、物を与えないと契約違反である。
受け手が不快であると認めない。不快に引き寄せようとすると詐欺。やる気が無いと、政略。
やる気が無いのに、受け手と認定を作ると虚構。
社会には契約と自由の方面で出ます。
○哲学者の建築士を作ろう!!
哲学書の作成時は平面図、立面図、詳細図、特記仕様を付けよう。
平面図は概念の全体の輪郭、区分の輪郭、内部に占める大きな概念、
立面図は完成したものを対象から考えたら何に写るかの想像図、
詳細は輪郭内での各思想の配置状態、
特記仕様は誰々の思想家の何て本のどの項を使用せよという指定。
様々な分野を総合して思想を作ろう。
○よくある教本は設計事務所!!
記号や論理学などは構造的な強度や限界、力の掛かり具合を簡潔に読み取る教えだった。
居住空間に必要な力を計算して、不意な力が加わらないか検討しよう。
設計事務所は骨組みを作る大事な職業だ。骨に肉付けをして建物になる。
○住む人を考えた思想の打ち立てを
思想を立てるには、永遠に、快適に住めるよう、考える相手の要望を綿密に調べよう。
思想家の精密な思想だけでは本当の思想ではありません。あります。
生活する中で起こるトラブルにも未然に配慮する思想にしましょう。
○哲学史を学ぶのもプロならではの配慮に必要です
形式は自由です。相対的な思想では続けていく上で何だか変な考えになりかねません。
将来を見越して、過去にあった思想を基礎にすればその通りになります。
中の人も安心してやって行けます。
自分の立ち位置を明確に自覚して、思想を打ち立てましょう。
道徳十六法の陣 −道徳が通じない問題に会った場合の論術ー
道徳で話すには強大な場合もある。その場合、強大な問題は、諸問題を論述され尽くされた
二つの問題の前に立たせる。強大な問題も、その内二つの問題のどちらかに分割される。
それでも、まだ道徳よりも強大な場合は、論述され尽くした二つの問題の前に立たせる。
これを数回繰り返す。そうすると、以前のものの半分になる訳である。
数分の一程度の問題は論述され尽くした諸問題で囲み、論理を閉じて行く。数分の一の問題
は道徳の足元にも及ばないのだ。
だから、道徳の通りなのです。
包囲閉鎖とは
包囲とは、二つ以上の意味で問題に対立することである。一方向からの意味では備えが万全
であるが、他方の意味からの備えがあるとは限らない。二つの以上の意味で対立すると問題の
統一が乱れる。
包囲は、自説が対立した問題が議論して完全であるように保つ。自説の同等の論を持ち出し、
二面から問題に対立する。問題の同等の論と対立していると指摘する。問題の前提となる論理
から、自説を述べると備えが無い。こうすると、統一が乱れる。
統一が乱れたところを閉鎖していく。
判断する論理構造
<議論一般>
A (統一)
Aならば、B (論理拡張の条件)
Aか、Bか (始めの主張か、拡張したかの確認)
<包囲とは>
Aならば、Bになるか (確実な意味の導入を妨げる) <疑問法>
Bならば、C (Cは最悪な事態になる、確実に失敗を取り付ける) (条件延長法)
<バイスタンディング・物別れ>
Aか、Bか (分立)
@Aならば、C Bならば、D (次の意味の導入)
C 、 D (限定)
※分立、条件、定言の構造体にすれば物別れにできる
<バイスタンディング・突貫法>
Aか、Bか
B
Bならば、Cでない (意味の導入)
※分立、定言、条件の構造。分立なら、対立するB論から不可能な意味の導入をする。
不可能な意味のあるようなA論だと言い、A論の論破を試みる。
c
,
性質から量になる概念
<性質と量の概念>
性質と量には断絶があって、量が幾つあるので名前が決まるとか、性質から幾つの量でなければ
ならないとは判らなかった。量は量であって、性質は性質である。調節ができて、関連が見つからな
い。
<共和と単独の概念>
共和は幾つかのものが選ばれる機会がある概念だ。単独は一つで決めて、選ぶ可能性も無い概
念だ。共和は選んで物事が決まるのであり、絶対も競争して一方でなくなる概念だ。単独は競争す
る機会を共和から取り上げ、単独で決める。単独は選ばせない。
<性質は共和であるか、単独か>
性質が単独であると、一つである。性質が共和であると、選んで決める量になっている。
<結論>
そうしたら、この名前のことですと、幾つの量であると言うのですよ。
天国(高)ー奈落(低)
解脱(私)ー地獄(彼方)
Heven(罪)ー煉獄(罰)
私たちの行く先は、大体、こんなものですね。
私たちの行く先は、中華や高さを考える人は最高になると天に昇り、最低の行いをすると奈落に落ちる。
知恵を考える人は解脱して極楽に行くのであって、知恵を考えない行いをした人は責め苦を負う地獄行き
です。道徳を守っているとHeavenに行くようです。罪のある行いをすると罰を受けて煉獄に行くそうですね。
奈落は下層民になるということですかね。高徳な行いをするとか、天国が照らしてくれるまで待てば、
天国に行けそうですね。
私が知恵を付けると世の中の苦しみから抜け出て煩わされない。地獄は仏の知恵から外れた行いに伴
う苦しみがある。仏の道の救いがあって解脱するのだ。
Heavenは道徳ですね。やってはいけないといいます。やらないでおくとHeavenに行けるようですね。
煉獄は罰ですね。やってはいけない罪を犯した、危険地帯に入ったと。罪を犯したので罰を受けるのだ。
煉獄は社会奉仕をして世の中に貢献すると煉獄から抜け出せるのだと。
高い、低い、知恵、外れ、危険地帯、罰、こういうことを気にしてたら天国か地獄に行けそうですね。
人と他のものとの違い
自然や神は区分して考えるものである。
だが、これが人間に考えると、自我を考える。自我は私やあなたであって、物という面もあるが、
むしろ、あなたであるという事を考える必要があるのだ。
自我は私と同じようなものである、自立しており他人が手を加えてはならない、思い遣るのだ。
私と同じというのは理性の構造を同じくしている。自立しているというのはあなたが必要なことを
するのであって私が加わってしまうとあなたと私が加わった何かになってしまう。思い遣るとは、
感情や事情を察して自分の態度を決めるということだ、機械はこの先に役に立つように手入れ
をした配慮はするが、思い遣らない、物に思い遣りを持たない。
教育や社会や自然や神を考えるが、これらに人間の問題が含まれたり、これらに人間が優位であると
考える。人間を含んだことは教育論や社会論や自然論や神の問題だが、人間が優位だとヒューマニズム
という。
だが、同一視、自立、思い遣りを認めないと、物のように扱ったり、神のように扱ったりするのだ。
例えば、同一視というと、私が感じるのと同じように悪いと思うであろうから訴えたり、私が痛いのと同じ
ように周りの人も感じて嫌でしょうからやらない、困っているのは見過ごさないとか可哀想と思い助けるの
です。
相手に同じようなものだという意識が無いと人に道徳を施せないようですね。相手に必要なことをして
あげるのが道徳的という面があるのかもしれないですね。
他人が必要であると自由を失ってしまう問題
他人を同一視したら、あなたがルールになってしまう。
他人と私が必要であると、他人と私が加わった何かなってしまう。ルールが幾つもあるような変なことに
なってしまう。
他人の影響を受けて私が必要でなくなってしまう。
私は自由であるべきだ。
同一視しても、私の必要に可能な限りだ。
私に必要な限るのであって、或る部分他人と共通している部分があると考えるべきだ。
他人の影響に従って行動を決めるのではなくて、私の必要とすることに不随して他人
に思い遣ることができる。
そうしたら、私は自由でありながら、人間扱いできる。
私が必要であると、他人を煩わせない効果も期待される。
私が自由であると、他人の最深部の自由に影響を与えない。他人がオリジナルであり、
私が影響を与えるとわからなくなってしまう。
嘘
実践的理性は量や性質や関係が経験であるが。様相は合理的だ。
経験は量が一つも無いのに少しはあるというと嘘である。性質はそうでない肯定表現を使うと嘘で
ある。関係は必要なのに不要なのは嘘。やってないのに、やったというと嘘。成功して無いのに、成功
しているというと嘘だ。
一方、様相は自分に根拠を持っている。実践的な可能的が現実であると言うと嘘。現実が関係無い
というと嘘。必然性が不要であると嘘。
経験は何人である、何をやった経験がある、名前が知りたい。こうでなければならないというと合理的で
ある。
実践理性は合理は自由である。
実践理性は私の自由であると考えるとなると、様相的であって、量や性質や関係がない。
あれは可能性がありそうだという発想は自由な概念であり、関係があったとしても自由になる
とは限らない。関係があったとしても現にそうであるという時だけ自由なのである。自由にしようと
思ったなら、こうでなければならないという事柄が必要である。
あの300年前の哲学者とか、そのまた昔の人は、最近の若者は云々と言っていた。
経験する人はどうして道徳が無いのか。何故なら、道徳は合理的であり、道徳は経験と対立している
からだ。関係を持ちたがる人が道徳的でないのは或る意味当然なのだ。
こういうことからして、私たちが道徳を必要としていることが即座に判る。自分自身何をしたいと考える
時に道徳を必要とするのだ。
道徳は他人を自分自身と同じく考える。経験しただけではあなた自身は判らない。あなたがどれくらいの
量を経験したとか、関係があったのかとか、誰がしと経験があったというものは道徳的でない。道徳的とは
様相であり、こうでなければならないということを聞き出したいのだ。
ただ、合理と経験が合致することも道徳の大事な要素であって、経験が多すぎると道徳的でない。
例えば、慎み深いというのは、経験が少ないとか経験が無いというのではない。ホットドックを差し出され
て、食べ過ぎるとお腹が大きくなるので、ほとんど断らなければならないとか、少しだけでも食べなければ
ならないということのようなものだ。つまり、慎み深いから。
考えは既に持っている。
子供をどうそだてるのか、という疑問を持つ。子供を目の前にすると改めて考え直す。
つまり、一回考え直さなければならないということになるのだ。
認識は感性から理性に至る事柄である。実践となると、既に持っていることを実際に適用するもの
であって、成功するかしないかというものなのだ。
子供を目の前にしてどうそだてるのか、という疑問は物がどういうことであるという認識でもなければ、
私が既に持っている考えを適用するのでもどちらでもない。
だが、どう育てるのかという疑問は実践が認識の働きになり、物が何であると認識するのでもなし、
考えることができなくなるのである。
私たちが認めることはいつも私たちが話し合っている善くて美しい価値ということなのだ。価値的な
ことを子供に施すのか、子供は何ほどの値打ちを持っているということだ。
だから、私はものが何であると認識することと、価値を適用する実践を踏まえると良くなるのだ。
自由と目的の議論
実践的な自由とは絶対に自由であって、自由の絶対性が継続することだ。
目的は対象を判断して、対象を幾つも用意することだ。
実践的な自由は対象の抵抗を無くす。抵抗を無くした対象は拒否し得ない。対象が幾つもあり判断する
場合を無くす。すると、絶対に自由である。
目的は対象を判断する。自由の絶対さを継続させないで、自由の絶対さを途中で止めさせて他のものに
続きを任せる。自由な絶対さは許さず常に対立する対象を用意する。すると、実践的な目的になる。
絶対的な自由を確立するにはどうするのか。私の為になるものを用意する。多数の私の為になるものを
用意すると、目的の中にあっても過半数が私の為になるので、目的は自由な絶対さに逆らえない。目的に
あって、私だけが終生担えるものを見つける。私だけが担えるものは目的が対象を用意し得ない。目的にあ
って、対象を用意する権利を自由にする。目的が対象を用意する権利を無くすと、絶対に私の自由である。
様相的な相克 → 神話
関係的な相克 → 哲学
性質的な相克 → 文学
量的な相克 → 道徳
実践に価値を考えることはどんな意義があるのか
価値はいつでも良いと思えるようなことだ。
私たちは世の中が詰まらない、退屈だと思うものだ。
実践に価値を考えるとどんな意義があるのかという人がいるだろう。
いつでも良いと思えることで考えていると、それなりに良さが判る。
良さを決めてしまっては、それだけしかないのでそれこそ退屈してしまうということを言う人には、
他にも楽しめることがあったら幾らでも良いと思ってくれて良いのだ。それと、退屈なものを考えて
いるのでなくて、良いことを考えているのでそれこそ良いのだ。退屈なことは良くならないと否定す
ることもできる。
だから、基本的に良くなりますね。
権力と権威
尊厳を区別しよう。
権力は強制力だ。権威は一目置かれる。
権威は権力でない。権力は強制する。権威は打ち払い、撃退される。強制を止める権威が無い。
権威が強制をさせないと、権力ではなくしてしまう。
権威は意見を聞かれて強制力を行使し得る。権威は権力が強制し続けさせない。権威は無視し
得ない。
どうして権威を傷付けるのか。何故なら、対等だからであって、彼はは権力を持っている分、
権威を無視しているのだ。それなので、権力から一目置かれる事が無いのだ。
権力の世界は必要に従っているという人達だ。
他人も強制的に従わせるし、私も強制を受けている。
強制する事柄が必要とされる。権力はみな同じく強制するので、従わないものがあると権力を卑しめ
ているので許されないと考える。それ以外にも、強制する事柄同士で分割してあるから、該当すること
に従わないものでも、強制する必要があると考える。
しかし、従っていることがそれ以外のことであるというと判る。強制が競合すると、やっぱり自分の立場
を強制して、必要なことを決めたがる。
例えば、どうして私が自由にしているといけないのか、私が所属してないので関係ないという言い分は
権力的な人には通じない。必要ないという言い分は権力を卑しめるものであって、権力は強制して当た
り前なので、強制する。例えば、一般の生活規則を外れると、それ以外にも強制する事柄で網羅してあ
って、別件として強制することが必要だと考える。生活の規則と罪の規則などである。
自虐性は嘘で成り立っている。
相手を傷つけたい事柄だが、
自分が偉くなるか、相手が偉くなるか、二者択一の選択肢を持っている。
自虐性は相手を傷付けることなく、相手を安全にして、自分を犠牲にしてみせることだが、
嘘を付くことで失敗してみせても平気にしているのだ。