今日吉祥寺で藤原正彦に遭った。

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1132人目の素数さん
普通のおじいさんだった。横顔を見ただけだけど、視線を感じたのか
こちらにチラッと視線を送った。「あ、俺のこと知っているのかな?」
と言う感じ。でも、彼の業績を知っているわけでも無いし、数学には
疎いし、彼の著作を買った訳でも無いから、こっちから声を掛ける
勇気は出なかった。髪は思ったよりあった。因みに同じ通りで
楳図かずおにもよく遭う。
2132人目の素数さん:2006/11/09(木) 23:38:40
ほんまかいな
3132人目の素数さん:2006/11/09(木) 23:49:48
>>2本当です。まごう事無く藤原正彦でした。
4132人目の素数さん:2006/11/10(金) 00:23:57
VIPに立ちそうなスレタイだなぁ
5132人目の素数さん:2006/11/10(金) 09:00:46
きもい。
6132人目の素数さん:2006/11/11(土) 20:24:28
背後から忍び寄って毛をひっぱれ
7132人目の素数さん:2006/11/11(土) 23:45:44
同じ通りって末広通り?
8132人目の素数さん:2006/11/12(日) 17:34:07
>>7そうです。
9132人目の素数さん:2006/11/13(月) 21:20:47
age
10132人目の素数さん:2006/11/14(火) 18:02:43
今日吉祥寺で藤原正彦に遭った。

「遭った」てのは普通災害とか天災とか事故とかに使うのだが
11132人目の素数さん:2006/11/14(火) 22:18:16
正彦は災害だろ。
12132人目の素数さん:2006/11/14(火) 23:16:23
今度会ったら竹刀をもったつもりで
メーンとやって反応を報告してくれ
13132人目の素数さん:2006/12/01(金) 18:55:29
品格
14132人目の素数さん:2006/12/18(月) 13:53:24
貧乳
15132人目の素数さん:2006/12/18(月) 16:23:21
吉祥寺はマンガ家が多いからな
16ヘルマン・ワイル ファンs.s. ◆4H8ru750VY :2007/01/02(火) 00:35:56
あははははは。
17132人目の素数さん:2007/01/02(火) 10:10:59
>>1
まあ、数学者でも彼の業績を知っている人は少なかろう。
18132人目の素数さん:2007/01/02(火) 11:38:48
藤原が吉祥寺に住んでいるのは事実です
したがって >>1 が見たのは
本物と思われます
19132人目の素数さん:2007/01/02(火) 12:49:36
どうでもいいですよ〜
20132人目の素数さん:2007/01/02(火) 14:52:22
>>17
業績と呼べる業績の存在すら疑わしいネ
21132人目の素数さん:2007/01/15(月) 12:33:17
げげ
22132人目の素数さん:2007/02/05(月) 18:56:54
吉祥寺の何処をぶらつけば遭遇するのね
23132人目の素数さん:2007/02/06(火) 14:03:22
まあ出版界では他のどの数学者よりも大物だわな。
24132人目の素数さん:2007/03/06(火) 19:51:29
昨日のNHKの視点論点にでていたな
25132人目の素数さん:2007/03/06(火) 20:52:13
>>20
だからどうした
森毅、矢野健太郎、遠山啓、皆そうだ。
26132人目の素数さん:2007/03/06(火) 20:56:57
誰か昨日の視点論点の詳しい内容しらない?
3分後から見た。
27132人目の素数さん:2007/03/07(水) 01:39:55
俺も見たけど、暗号が面白そうに思えてきたよ。難しいんだろうけど。暗号に関する彼の著作はないみたいだね。
28132人目の素数さん:2007/03/11(日) 21:32:14
653
29132人目の素数さん:2007/06/03(日) 00:20:40
http://d.hatena.ne.jp/suuuuhi/20070512
 国家観には二種類ある。
 ひとつは、国家を、一人ひとりの人間の共存と福祉のための公共財である機械装置と考えるものである。国家は水道や電気や医療や交通網のように、人びとの生存にとってきわめて重要なものだ。
しかし、いかに国家が重要であるとはいえ、それを「愛する」などというのは、水道管や電線をぺろぺろ舐めまわし、女性の靴や下着のにおいを嗅ぐのと同様、変態である。
この第一の国家観からいえば、愛国心はフェテシズムの一種である。国家が愛国心などという変態心性を万人に要求する制度は、日本国装置の性能の悪さとして、国家プライドを大いに傷つけるだろう。
 それに対して、国家を一人ひとりの人間の生命を超えた、より高次の崇高なる集合的生命とする国家観がある。このようなリアリティを生きる人びとにとって、国家装置の防衛メンテナンスのための危険業務組織(軍隊)は、集合的生命の男根のように感じられる。
アメリカに負けて憲法九条を押しつけられたのは、「全能感を断念しなさい」と去勢されてしまったような、屈辱の体験である。そして日本は、自由だの人権だの民主主義だの甘ったるい白粉をぺたぺた塗られて、女にされてしまったと、彼らは感じる。
 第一の国家観は、人びとの安全と生命を守りながら繁栄をもたらそうとするリアリズム政治のための、基本の基本である。国益の計算や戦略的思考も、この国家観を前提としなければ、何の意味もない。
 第二の国家観は、非常時に短期間「だけ」、ひとびとを狂わせるための興奮剤である。必要がないときに使ってはならない。
そして二一世紀の世界でそれが必要になる時は、もうない。いまではこういったドラッグは、貧しい国々で誤用され、悲惨な流血や国土の荒廃をもたらす廃棄すべき毒物でしかない。
30132人目の素数さん
201