知の``継承''が生む創造力
志村 五郎 米プリンストン大学名誉教授
昔から「日本人はまねはうまいが,創造力は乏しい」とよく言われる.
特に,自然科学の分野では,今日でも著名な学者たちがそう言っている.
果たしてそうだろうか.私はその逆に,日本人は世界で最も創造力に
富む国民の中に入るのではないかと思う.歴史的にみて,欧米の科学
知識を吸収するのに多くの労苦と時間を要したのは当然であって,そ
れを前提にして考えると,日本の科学者たちは実によくやっている.
科学というのは,多くの人の業績の積み重ねであって,「ゼロからの
出発」はあり得ない.私の専門は数学だが,過去五十年間にわたる日
本の数学者たちの創造的な貢献は目覚ましく,何ら恥ずべきものはな
い.
にもかかわらず,常に,その反対が叫ばれるのはなぜか.恐らく,明
治以後の日本の進歩と発展に驚いた欧米人が,日本人を全面的に称賛
したくなかったために,ケチを付けようと「まねは上手だが……」と
言ったのが発端ではないだろうか.
そして,その言葉を日本人の劣等感と欧米崇拝が,甘受してきた大き
な理由と思う.また,欧米人と比べると日本人は宣伝が下手で,しか
も,一般的に言って同国人の仕事(業績)を認めたがらないといった気
質も加わっているのだろう.
もし,本当に日本人が創造力に乏しいというのなら,それを証明して
欲しいものである.私にとって不可解なのは,著名な学者までが自国
民をけなしている態度である.
考えてもみよ.世界のどこにそんなことを言って喜んでいる国がある
か.その上,以前からこの問題を教育方法と結びつけて論じる人がい
るが,そこに大きな危険が潜んでいることを指摘したい.
「丸暗記を廃して思考力を高めよ」というスローガンに反対する理由
もないが,それを叫ぶのはほとんど無意味である.特に,そこから「
教える分量を減らせ」という結論を引き出すのは誤りだ.
それを論ずる前に,まず科学のある重要な考え方は,その創始者にと
っては多大な努力の後の到達点であっても,次の世代にとってはそれ
が当たり前の常識になって,次の発展の母胎になるという事実を忘れ
てはならない.それは研究者の間だけに当てはまるものではなく,一
般社会においてもそうである.例えば,毎日接する「降水確率」に使
われている確率という概念がよい例である.
そう考えてみると,確率ばかりではなく,教えられるき事実や概念の
分量の多くは,それはますます増えていくだろう.もちろん古くて重
要性を失ったものは切り捨てて,新しいものと置き換えられるべきだ
が,その作業は専門教育でも一般教育でも慎重に行わなければならな
い.大学生の学力低下は現実に起きているのである.
付け加えると,まねが上手なのは良いことで,それもできないようで
は何もできない.「まねは上手だが創造力はない」などと,それこと
人の口まねのようなことを言うのはやめて欲しいものである.まして,
それを教育方法,特に,教える分量に結びつけるのは実に愚劣だ.
はじめに戻って欧米人について言うと,彼らの中には,日本人のまね
をして,あたかも自分の独創のように上手に宣伝するものがいる.い
まもって,彼らが全体としてそうした卑劣な能力を失ったわけではな
いから,日本人の仕事が公平に評価されていると思ってはならない.
だから宣伝上手になれとは言わないが,若き世代へ私の忠言は,いか
なる研究も中途半端にせず,どうしても認めさせずにはおかない水準
にまで撤底的にやれということである.創造はしばしば撤底から生ま
れ,そしてまた,若き諸君にそれができるはずなのである.
大阪大学教授などを歴任.95年に自然科学者に贈られる藤原賞を受賞.
71歳. 「論点」読売新聞,2001年11月8日