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名も無きマテリアルさん:04/07/06 22:48
36歳のオサーンが自分史を綴ります・・・・。
削除依頼やカキコなどせずに生暖かく無視してください。
生まれた街は東京から3〜4時間の所にある田舎。
父親が地方公務員で県内各地を転々とする。
3年に1回程度の引越し/転校の中で、失ったものも得たものも多々あり・・・。
小学校高学年のときに洋楽にハマる。
ノーランズから入り、ビートルズ、KISS、DeepPレッドツェッペリン。
NHKのFMが大好きで渋谷よういちが師匠だった。
8ビートギャグは参考書。
カルチャークラブ、デュランデュラン(まだヘビメタバンドという位置づけだった)、
ニューヨーロピアンズも聞いた。
一転して中学生くらいから数年間に及ぶDQN人生のスタートを切る。
DQNになった理由は、単純にモテたかったから。
当時は赤い靴下、ヨーロピアンの靴、ベンクーガーorジョニーケイのボンスリ、
短ラン、髪の毛はチェッカーズでモテモテだった。
実際モテたが、成績は入学時340人中6番だったのに卒業時87番。
痴女遭遇経験2回あり。
音楽はレッドツェッペリン一辺倒になる。
バイクにもハマり、親父と一緒にモトクロスの草レースに参戦したり。
中学の在学3年間中、親の呼び出しは計11回。
そのうちで、「これは呼ばれても仕方が無い・・」っという事件は2件だけ。
大規模な他校との抗争事件とか。
それ以外は、本当にくだらない事ばっかり。
2〜3年はちょっと変な先生で、
「先生って絶対正しいって訳じゃ無いのナ。変なのいるのな。」などと親父
と笑いながら話していた。
もうね、朝の開門時間より2分早く登校したとかで呼び出しとか。
親父は法曹関係者だったが、本当に懐が深かったな。
高校は一応県立の進学校に行ったのね。
でも、1年の夏に共同危険行為で補導、無期の停学。
マジで無期なの。
っで、1ヶ月経っても復学の”ふ”の字も出ねえ。
終いには、担任と生活指導の先生が来て、玄関先で「お願いですから自主退学
してください」っとか頼まれちゃうし。
親父が力がある人だったので、先生と話を付け、他校へ編入で片が付く。
地元を離れ、昔住んでいた街へ。
16歳で一人暮らし人生が始まる。
この頃は一切洋楽聴かなくなって、尾崎豊しか聴かなかった。
行った先は偏差値40くらいの高校。
前の学校では1年の1学期に終わっていた数1のケツをまだやっててビビッた。
ただ、本当にすぐなじんで、馬鹿ばっかりだけど本当に面白い仲間たちと。
すぐに地元の暴走族に入り、それなりに謳歌していたが、高校3年の夏に大事故
を起こす。
もうね、一生普通には歩けないとか言われちゃったし。
足の間接の骨が35ピースに粉々。
結局手術で全部の骨をかき集めて、リハビリの末日常生活は普通に送れるように
なった。
でもね、その時に痛感したさぁ。
リハビリの通いに、お袋がずっと付きっきりでさ。
「俺は親の庇護が無いと何も出来ないな」っと。
その事故までは、高校を卒業したら漠然と地元の専門学校でも行って、適当に遊ぼうと。
その後ちんたら公務員試験を受けて警官にでもなろうと。
そう考えていた。
でも、俺は覚醒しちゃったわけ。
リボーンしたわけ。
地元や友達とも離れて、ちょっと真面目に生きてみようと。
右翼の先輩のウザイリクルートから逃げたかったのも有るが。
っで、卒業と同時に上京。
上京の日、親父とお袋が駅まで送ってくれた。
車中、親父の説教ばっかり。(笑)
普段あまり説教をする人間ではなかったが、兎に角説教。
切符を買い駅に入る時、僕は尾崎豊の「坂の下に見えたあの街」を聴いていた・・・。
お袋は笑いながら泣いてた。
親父は・・・・
車から降りてこなかった。
じゃぁ、気をつけてなって。
それで終わり。
親父の葬式の時に聞いた話だけど、帰りの車中、号泣だったらしい・・・・・。
続きキボン
材料物性板住人(貴重)として歓迎します
東京のPC系の専門学校に入学。
下町のゴミゴミしちゃ所に住む。
風呂無しの家賃3.8万円のボロアパート。
後に借りた駐車場が3.5万円、風呂(サウナ)代が毎月2万だったことを考えると、
早々に馬鹿だったと気がつく。
学校の近くだったため、もう、毎日たまり場。
だから、4月になり学校さえ始まってしまえばぜんぜん寂しくなかった。
彼女もすぐ出来たし。
このころ、生まれて初めてバイトをする。
っで、ハマる。
っで、当然学校に行かなくなり、バイト人生が始まる・・・・。
学校は退学、バイトに明け暮れ19歳が終わろうとしている頃、親父が癌を再発・・・。
親父はもう何れ駄目だと解っていた。
彼が始めて癌に罹患したのは、俺が小学校のとき。
っで、その後10年再発してなかったんだけど、今回はすい臓、+肝炎。
場所が悪い。
そういえば、小学校の時、彼が癌の手術後2〜3日で、劇症肝炎だかなんだ
かの症状を出した。
最終的に死んだ時の死因は肝臓がん。
間違いなく、肝炎はあのときの輸血だったんだろう。
でも、病院を責める気は無い。
責めても仕方が無いし、当時のコンセンサスでそれが問題だったとは思えな
いから。
この後死ぬまでの3年間、月に2〜3回のペースで帰省する。
2〜3カ月おきに違う彼女を連れて帰る俺に、親父も呆れ顔だったが。
その頃から、自分の生き方や人生、目の前にある苦難から逃れる享楽性に向き合う
様になった。
元々、決して勉強が出来ない男ではなかったが、以前は、
・俺はやれば出来るがやらないだけ
・俺はそこらの奴とはちょっと違う
・今のフリーターの自分は仮の姿で、本当の自分はもっと凄い。
手を抜いて生きているだけ。
っと本気で思っていた。
でも、バイトとはいえ世間の色んな大人たちを見ていて気が付いてきた。
僕が嫌悪感を覚える、くだらないおっさん連中は、今の僕の成れの果てじゃない
か?っと。
昼真っからジーパンはいてふらふらしているあの駄目親父連中は、俺と同じ歳
の頃、今の俺と同じように考えていたんじゃないかと。
っで、あいつらに至ると。
そこで、猛烈な勉強ですよ。
少なくとも高校中盤以降〜19歳まで、一切大学受験を考えた勉強をしてこな
かったが、ここからスタート。
私学文系を志向、1日18時間勉強とか。
一発目の模試偏差値が、驚愕の41・・・。
これを1年で55〜56付近まで持って行き、20歳の時に私学4大の文系へ入学。
はっきりと、「がんばるけなげな自分」に酔ってました。
元々DQN故に頭の悪いところが多々あり、その中でも自分に酔える馬鹿な単純
さを逆利用しました。
これが1発目の、人生に於ける価値観変更の大きな転機でした。
よく、元DQNと話すと、「俺はDQN時代のことを後悔してない」っと言います。
僕はそれは無い。
あれは、人生最大の無駄、並びに、人生最大の享楽性享受の悪しき時間でした。
しかしなかなか人の本質は変わりません。
大学入学後も、DQN性は全くなくなりましたが、享楽性は抜けない。
バイトのほうが楽しいので、ぜんぜん学校には行かない。
そうこうしているうちに、バイトが本(職)業になり、学校は休学へ。
22歳の時に、バイト先で得たノウハウを生かし、小さなソフトハウスを
有限会社で起業。
親父の余命が告げられる。
1年らしい・・・。
この頃、貯金ゼロ、横浜の木造アパートに住みながら高級外車に乗る駄目ぶり。
時代のせいと言えばそう言い逃れも出来るが、何せまだまだ駄目人間。
但し、収入は月額60万くらいあった。
全部綺麗に使い切っていたが。
親父はもう駄目か・・・。
これからは本当に自分の足で歩かないといけない。
貯金でも始めるか・・・・。
元来、彼の民族のように極端な性格なので、俄然貯金に走る。
走り始めると面白くなって酔っていく。
収入も増えていたので、親父が死んだあとしばらくすると、既に2千万近く
お金がたまっていた。
親父は24歳の時に死んだ。
死ぬ1ヶ月くらい前に、一回心停止していた。
そのときは、心臓マッサージで生き返り、夕方にはベットに座りながら1晩
中語り合った。
ガキの頃のこと、入れ替わり立ち代りの彼女のこと、そして仕事と将来のこと。
お堅い法曹関係者だった親父から見れば、社員は俺だけのソフトハウス経営
は「フリーター」だった。
「口を利いてやるから、地場の証券会社か地場信金に就職して欲しい」
今やっている仕事、客筋の良さ、今後のほぼ見えている展開、全て話したが無駄だった。
最後、俺は病室で号泣しながら訴えたね。
「あんなに駄目だった俺が、働きながらあんなに勉強して、今に至る。何で理解してもらえ
ないんだ?」
それでも駄目。
惜しむらくは、この日の語り合いが俺と彼の最後の会話だったこと。
又チャンスがあると思って、この件はペンディングで濁した。
もっときちんと話して、納得、安心してから死んでいって欲しかった。
しかし、事故や急病で、いきなり別れも出来ずに死んでいった訳では無い。
この一晩、朝まで本当に良く話した。
朝方親父が、「のどが渇いた」っと。
俺は近所のコンビニに、ICEBOXとかいう氷を買いに行った。
レモン味かなんか。
そして一緒に、彼の大好きな酒も。
もう死ぬんだから、良いと思った。
親父は紙パックの日本酒にストローを刺し、嬉しそうに飲んでた。
氷を噛みながら、「美味しい」って。
そのあと、実家に帰り母親と付き添い交代。
ちょっと寝て、親父に顔を出し、帰京。
「じゃあね」
これが又、最後の会話。
2週間後、親父の病室は「シューッ」っという人工呼吸器の音だけが響いてた。
体中チューブだらけ。
この形は、決して親父が望んでいたモノではない。
俺は母親に怒った。
「なんで延命したんだ!」
お袋は言った。
「私もそのつもりだった・・・。けど、みるみるうちにチアノーゼが出てきて、痙攣してきた。
先生が来て、心臓マッサージと酸素吸入を始めた。
私は、もう何も判断できなかった。
先生が、呼吸器を用意しろとナースに命令、私を一瞥した。
そこで、辞めて欲しいなどと絶対に言えなかった。
手を触って体温があるだけで良いから・・・と思ってしまった。」
俺は何も言えなくなった。
お袋は、このご毎日病室の廊下で、GBのテトリスをやってすごした。
さらに続ききぼん
20歳位からサーフィンを始めていた俺は、週末は必ず海だった。
この年の春も、そうだった。
昼にあがって、家に帰る途中、留守番電話を聞いた。
姉からの留守伝。
「お父さん死にました。慌てることは無いから、ゆっくり今夜にでも来て
あげてください。」
意外にショックは無かった。
人工呼吸器に繋がった親父から目を背けたかった俺は、意識的に彼の
ことを忘れようとしていた・・・それで海にいた。
すぐに電話を入れた。
「朝早くて疲れているので、ちょっと寝てから行く。」
なんであんな事言って、実際夕方に東京を出たのか今もって良くわから
ない。
ただひとついえる事は、思ったよりショックではなかった。
それはそうだろう、数年間、死ぬと解っていた相手で、その前提でモノを考
えていたし、心構えもあった。
でも・・・、それでも意外なほどショックではなかった。
通夜は至って明るいものだった。
親戚、従兄弟、兄弟、全部が集まって、昔話やら。
ただ、夜も10時を廻ると皆ホテルやら実家やらに向かい、また、僕ら家族だけになった。
お袋が明るく気丈だったのは救いだった。
兄貴は元々秀才なのだが、人としてのキャパが皆無で完全に長兄としてテンパってた。
一人で訳のわからない、フィルダーズチョイスの連続。
IT系のコアなSEをやっていたが、数年前に少し精神を病んで今は田舎に帰ってきてい
る兄。
昔から勉強は出来たが要領が悪く、いつも俺と比較され、「出来が悪い」と言われてい
た兄。
兄は昔から精神的におかしな所があった。
途轍もない幼稚な自己顕示や、動物等に対する信じられない虐待や虐殺。
今考えると、オタクの走りかもしれない。
恐らく親の愛情を集中して受けていた俺に対する嫉妬もあったのだろう。
5歳年上の兄に遊んでもらった記憶は無い。
幼い頃からある兄の記憶は、『幼稚で面倒な人』だった。
あと、キレると何をするか解らない人。
姉は唯一兄弟の中ではまとも。
っというか、秀逸。
夜中にお袋に噛み付く兄を、僕と姉で軌道修正。
最後は僕が兄に切れ放棄、姉が一人でケア。
親父を看取るのも、兄貴のケアも、すまん。
これを機に、兄貴とは縁切、以降、俺の会話から”兄貴”の存在すら消えた。
地元の風習で、実家での通夜、翌日実家で読経。
その後出棺して火葬場へ。
火葬後に本葬。
正直出棺は辛かった。
親父が大好きだったあの小さな家。
転々としていた親父と家族、その思い出が最も長く深く染み付いた家を今、親父は出て行く。
肉がついていようと、骨だけだろうと、死んだものは死んだもの。
関係ないはずなのにキツかった。
「もう、親父はこの家に帰って来ない」
昨夜の和気藹々とした空気はその家には無かった。
火葬釜への入棺が思いやられた。
姉に抱きかかえられ、お袋は遺影を手に、霊柩車に乗り込む。
釜への入棺は俺意外、皆泣いた。
まともな愛情を受けられず、最後まで反発していた兄貴まで泣いていた。
お袋は、係員が即してもなかなか棺おけの窓を閉めない。
叔父が気を利かし、お袋を離れたところへ。
親父の弟が窓を閉め、火葬釜へ。
お袋、姉、声を上げて泣いていた。
おれだけがポツンと一人、距離を置いて眺めていた印象がある。
それは、俺だって色々な思いがある。
でも、なぜか解らないが、俺だけは気丈で居ようと思っていた。
釜に火が入ってからは、もうお袋もサバサバしたもので、親戚と漬物が旨いだの
子供は今何をやっているだの笑いながら話していた。
本葬(告別式)は派手だった。
葬儀屋も、「この規模の葬儀は年間に何本も無い」っと言うくらい。
400人近い人たちが来て、皆、飲んでいた。
親父の同僚も何人か来ていた。
その中で、とある法曹関係者が声をかけてきた。
「あんた、金髪だった兄ちゃんか?」
あぁ・・・、ガキの頃の話は勘弁してください・・・。
「親の仕事の性格上、あんたはまぁ(笑)、けっこう有名な存在だった。
しかし、今は立派になったみたいだけど、あの頃はどうしようもなかったよな。
正直皆、法曹関係者の子供がアレじゃ立つ瀬ないなって話してた。
上2人は優秀なのに、なんだアレは・・・。
倅の火消しばっかで大変だなぁって。」
「ただな、まともになった兄さんだから、こんな夜だから、お前の親父の話を教えてやろう。
お前が抗争事件やらで問題を起こした時、「大変だな」って声をかけたんだ。
お前の親父に。
そしたら、お前の親父、なんて言ったと思う?
笑いながら、
「そう思うだろ?ところが、あいつはちょっと面白いんだ。
発想や感性が違うっていうのか、上の二人には全く無いものがある。
今はあんなんだけど、元々恐らく兄弟中で一番頭が良いはずなんだ。
真ん中(姉/秀才)より上だぞ、アレは。
あいつは、ひょっとすると大成する。
大成しなくても、何れ何らかの形に落ち着くはず。」
そう言ったんだ。
その後、本当にあの不良少年が○○大学に行って、今は24歳で社長さんと来ている。
だから、お前はこれから先も、どうすれば良いか自ら解るよな?」
その後、タバコを吸うと言って席を立った。
春の夜空を眺めながら、タバコをふかし、泣いた。
唯一、この時だけ泣いた。
葬儀から3日ほどた経ち、緊張の糸が切れたお袋が少し心配だったが、俺も仕事がある。
49日で又会おうと、お袋に別れを告げて実家を出る。
もう、本当に俺を支えてくれるバックボーンは無くなったなぁ。
ずっとケツを拭いてくれた親父はもう居ない。
これからは本当に一人でがんばらないといけない。
帰りの車中、ずっとそんなことを考えていた気がする。
数ヶ月後に、高級外車を売り払い、新車で軽自動車を買った。
同時に、横浜の郊外に中古の一軒家を購入した。
最終的には、この不動産購入は7年後に1400万の差損を出すのだが、全く後悔していない。
親父の死は、今までに無かった堅実さを置き土産にしていった。
会社も発展的に業務形態を替え、当時で既に年収も1千万後半。
社員も増え、非常に順調だった。
現在も、世間並みから見ると非常に良好な会社で、経済的にも恵まれている方だと思う。
つくづく、親父にこの姿を見せられなかった事が悔やまれてならない。
結婚
30歳手前で結婚をした。
それ以前にも、何回か「結婚しても良いかな」っと思える相手は居た。
特に、親父が癌を発病した時、どうしても孫の顔を見せてあげたくて、当時付き合って
いた女の子と結婚一歩手前まで行った。
その辺の芸能人より、綺麗だとよく言われた。
街を一緒に歩けば、よく振り返られた。
凄い美人だった。
頭も決して悪いという訳ではなかった・・・・のだが。
天然・・・を超えた、突拍子も無い事を突然言い出す女だった。
そういった所は、可愛くも思えていたのだが、お袋には受け入れられなかった。
「お前の気持ちは解るんだけど、あの子だけは辞めてもらえないだろうか?」
そんなこと言われたって、向こうの親には結婚の許可貰っちゃったよ・・・・。
そんなこんなだったが、浮気がばれたり、同棲にも飽きてきて、結局別れてしまった。
結局結婚までの間に、女医から中卒DQNまで幅広く40人くらいの女性と付き合った。
遊んだ子は更に数倍。
女房とは、これまた不思議なもので、親父が接点で付き合い始めた。
27、8歳だったと思う。
彼女の父親は、俺の親父とは少し毛色が違う、仕事人間だった。
地方から出てきて大企業に就職、その会社の役員一歩手前まで来ていた。
典型的な仕事人間。
家庭など振り返る余裕もなく、仕事に邁進していた。
彼女の家族は、そんな彼女の父親に不満だった。
父親失格だと思われていた。
ただし、彼女だけは父親を深く尊敬していた。
そして、父親を批判する母や兄弟にこそ、問題を感じていた。
「誰の為に、お父さんは働いているの?背中を見て感じるモノは無いの?」
いつもこの話は平行線だった。
そして、父親への突然の癌宣告。
これまた、場所が悪かった。
悪性リンパ腫。