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373名も無きマテリアルさん
  「科学少年」の虚構性
               東北大学材料系3年生 >>344
青少年の科学離れが叫ばれて久しい。曰く、カリキュラムや教師陣に魅力がないため、青少年が科学に触れる機会が減少したため、文理間の収入格差のため……。
いかにもオタメゴカシの牽強付会じみた理由づけだが、私の母校がスーパーサイエンスハイスクールに指定されるなど、実際にもこれらの理由に沿って対策がなされているようだ。
だが、本当にこういった理由で科学離れが起こっているのだろうか。科学離れの実際の理由とはなんだろうか。
私は、「科学少年」というイデオロギーが大きな弊害となっているように感じる。結論はこれだけだが、面白そうだからちょっと書いてみよー↓↓

私は大学受験浪人の頃、当時名古屋大助教授にしてミステリ作家であった、森博嗣を愛読していた。森は典型的な「科学少年」であり、中途半端に感化された私は、森に倣って雑誌『子供の科学』を購読し始めた。
雑誌を読み齧っては、パートで疲れ切って帰ってくる母親に対しコリオリ力についての受け売りを講釈したり、科学的無関心を謗ったり――いかにも森的なニヒリスティックな口上で、「科学少年」を気取っていた。
これだけで十分に「イタい」話であり、あまり思い出したくはないのだが……しかし心地のいい痛みだ。さらに書いてみよっと。
374名も無きマテリアルさん:2009/06/02(火) 21:22:04
大学受験に成功し、大学教授に認められ、科学者として大成する。この一連のイメージが僕のなかの「科学少年」と結びついていた。言ってみれば、当時は森博嗣ごときにミメーシス(模倣)を起こしていた。
結果的に、知的ぶった講釈を家族に煙たがられながらも何とか東北大学に合格した。
僕は旧帝大「科学少年」の地位を得た。誰もが僕を祝福しているように見えた。
大学入学の1か月ほど前から、僕は2ちゃんねるでコテハンをつけ始めた。ログを読める人なら分かると思うが、当時の僕は一見いまの僕と大差なく、向学心に満ち溢れているように見えると思う。でも、その動機は全く違う。
実際に4月になって大学に入ってみると、まず自分のような「科学少年」はあまりいないことに気がついた(僕は自宅浪人で、丸1年は家族としか接触がなかった)。でもそれは大学教授の希少性と同じようなもので、自分は選ばれた貴重な人間なんだ――こう勘違いしていた。
さて、高校の勉強では大学受験という目標がある。でも大学の勉強には、みんなが抱く大きな目標のようなものはない。自分で勉強する動機を「備給」しなきゃいけない。
僕は必死に「科学少年」であろうとした。つまり、僕は科学が大好きだから勉強しているんだと思いこもうとした。
でもそんなの無理だった。森博嗣の分かりやすいアホらしさや「イタさ」を楽しいとは思えても、晦渋な科学それ自体を面白いとは到底思えなかった。数学の面白さを喧伝する解析学の老教授が憎々しく思えた。
大仰に科学を面白がる奴らは、「科学少年」プロパガンダに乗せられている、第三者的視点の欠如した「知的カタワ」なんだと馬鹿にした。
「知的健常者」の僕は、そんな劣等感を持ってしまった自分を意識した。ハイブラウを自覚する僕が、どうして奴らにコンプレックスを抱く必要があるんだろうかと常々考えていた。
それで最近、ようやく気がついた。「科学少年」イデオロギーの所為だ。
今アパートにある『子供の科学』を読んでみると、気持ち悪いくらいに教育的で、また感化しようとする態度が見て取れる。「コカ(『子供の科学』)のおかげで理科の点数がよかったです。これでまたコカを買ってもらえます」。
375名も無きマテリアルさん:2009/06/02(火) 21:24:38
閑話休題、今時そんなプロパガンダに担がれるのは子供か、よほど「地頭」の悪い奴――講義室で大きな音を立てながら得意げに日経新聞を広げ、学生実験にはご自慢のノートパソコンを持って来ちゃうような――空気の読めない困ったちゃんくらいなものだ。
でも大半の「科学少年」でもなければあまりモノも考えていないような学生は、実際には稀な「科学少年」に勝手に嫉妬し(教育のおかげで)、さらに稀な「科学中年」の先生を憎み、結果的に自棄になり、そのまま卒業、就職するだろう(卒業後の彼らについては後に触れる)。
僕のような自己反省を欠かさず、「科学少年」の虚構性を見抜きコンプレックスを克服することができる学生もまた、類稀なものだ。

「科学少年」イデオロギーの弊害とはどんなものか。まとめてみよう。
科学教育を推進するほど、つまりそこに含まれる「科学少年」イデオロギーを流布すればするほど(下手なイデオロギーを押しつければ押しつけるほど)劣等感を持つ人間は増え(馬鹿しか共感不能)、ますます科学難民が発生する。
絶対的な新参者はある程度増えるだろうが相対的な科学嫌いも増え、科学者のクオリティは零落する(そもそも学究に一番必要とされる内省心の豊かな奴は騙されない)。
一時的なクオリティを維持するためには排他性を強化するほかなく、結果、悪循環に陥る。
376名も無きマテリアルさん:2009/06/02(火) 21:26:13
メリットも挙げてみよう。それは、その入口の狭隘さからくる衒学的な振る舞いの容易さだ。
中年のサラリーマンが「数学は大切だ」などと偉そうなことを吐かしているのは誰だって聞いたことがあるはずだ。
彼らの振る舞いこそコンプレックスの裏返しかもしれないが、そういった学生時代には科学アレルギー持ちだった連中、
つまり中年になってようやく新書(ブルーバックスなどが典型)を読み始めるような青びょうたんども(ブルーバックスで青びょうたんとは面白い)を呼び戻す程度には、「科学少年」教育は役立っているということだ。
彼らのおかげで職業的科学者は大手を振って活動できる。勘違いの馬鹿にも感謝しなければならない。

では、どういった態度で科学を学べばいいか。どこから学習動機を「備給」すればいいか。
それは吾人が手ずから獲得する必要のあるもので、この現代、皆が持ち得る大きな動機など存在しない。「科学少年」の現実からの乖離は、もはや誰もが気づくところとなった。「科学少年」が皆の動機である時代は、もう終わったのだ。