東条英機の孫と言うおんなの勘違い

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60文責:名無しさん
1.「ニューヨーク・タイムズ」アーベント特派員の記事
 「日本ハ第一次上海事件ヲ繰リ返スヲ好マズ、忍耐、隠忍以テ、極力
 事態ノ悪化ヲ防止セント努メタルモ、支那ニ於ケル外国権益ヲ渦中ニ
 引キ込ムヲ企図シタル支那人ニ依リテ、文字通リ戦争ニ押シ込マレタ
 ルナリ。」
2.蘆溝橋事件の経緯。日本軍は支那軍の四度に渡る攻撃、七時間を堪えた。
3.日本は二度出兵を決定し、二度まで撤回している。
4.国民党政府は停戦協定に反し、郎坊事件、広安門事件を引き起こす。
5.和平交渉が予定されているにも関らず、支那保安隊によって、大山、
 斉藤が虐殺される。
6.「グラン・ゴアール」紙のエドアール・エルセイ特派員が「支那事変
 観たまま」で、日本側が国民党の術中に嵌まったことを記す。
7.昭和二年、漢口のイギリス租界で、中国人とイギリス義勇隊の間に
 争いが起こり、その結果死者がで、暴徒化した群衆は暴れ放題だった。
 イギリスは極東艦隊を南京に終結し、日本やアメリカやその他、租界を
 持つ国々に共同出兵するよう要請した。
 しかし、幣原外相は駐日イギリス大使ティレーにいくら協力を頼まれて
 も、イエスと言わず、中国への出兵を断固拒否し続けた。
 当時の日本の外交の首脳は、租界が時代遅れであることを他の国々よりも
 先に認識していたのである。
 中国にいる日本人の生命財産を租界を作って、保護することは時代に合
 わないから、危険が生じたら危険でないところに移動させればよいという
 考えだった。
 そのような考え方が、結果的に多くの日本人が残虐な手口で惨殺される、
 という事件が繰り返され、日本国民を憤慨させるとともに、弱腰の幣原
 外交を非難させることになるのだが。
61文責:名無しさん:2001/08/15(水) 03:06
>>59
戦争責任ってどういう責任なの?戦争をおこしたこと?
負けたこと?道義的責任ってこと?遺書に書くだけだったら
たいした責任じゃない気がするけど。
62文責:名無しさん:2001/08/15(水) 03:07
1.「ニューヨーク・タイムズ」アーベント特派員の記事
 「日本ハ第一次上海事件ヲ繰リ返スヲ好マズ、忍耐、隠忍以テ、極力
 事態ノ悪化ヲ防止セント努メタルモ、支那ニ於ケル外国権益ヲ渦中ニ
 引キ込ムヲ企図シタル支那人ニ依リテ、文字通リ戦争ニ押シ込マレタ
 ルナリ。」
2.蘆溝橋事件の経緯。日本軍は支那軍の四度に渡る攻撃、七時間を堪えた。
3.日本は二度出兵を決定し、二度まで撤回している。
4.国民党政府は停戦協定に反し、郎坊事件、広安門事件を引き起こす。
5.和平交渉が予定されているにも関らず、支那保安隊によって、大山、
 斉藤が虐殺される。
6.「グラン・ゴアール」紙のエドアール・エルセイ特派員が「支那事変
 観たまま」で、日本側が国民党の術中に嵌まったことを記す。
7.昭和二年、漢口のイギリス租界で、中国人とイギリス義勇隊の間に
 争いが起こり、その結果死者がで、暴徒化した群衆は暴れ放題だった。
 イギリスは極東艦隊を南京に終結し、日本やアメリカやその他、租界を
 持つ国々に共同出兵するよう要請した。
 しかし、幣原外相は駐日イギリス大使ティレーにいくら協力を頼まれて
 も、イエスと言わず、中国への出兵を断固拒否し続けた。
 当時の日本の外交の首脳は、租界が時代遅れであることを他の国々よりも
 先に認識していたのである。
 中国にいる日本人の生命財産を租界を作って、保護することは時代に合
 わないから、危険が生じたら危険でないところに移動させればよいという
 考えだった。
 そのような考え方が、結果的に多くの日本人が残虐な手口で惨殺される、
 という事件が繰り返され、日本国民を憤慨させるとともに、弱腰の幣原
 外交を非難させることになるのだが。
63文責:名無しさん:2001/08/15(水) 03:08
8.大正二年の夏には、三東省と漢口で、日本人の将校が拘禁されるという
 事件が起こり、同じころ、日本人が袁世凱の占領した南京で虐殺されて
 いるが、両事件とも、日本は報復しなかった。
9.大正四年、日貨排斥運動が起こり、漢口では日本商店が襲撃され、三菱
 の支店が焼き打ちされた。しかし、日本は軍隊を派遣して保護するような
 ことはしなかった。
 ちょうど同じころ、アメリカの海兵隊はハイチに上陸して武力鎮圧を行
 っていた。
10.大正十四年、ワシントン条約の線に沿って、中国にある日本の利権の
 縮小方針をさらに進め、北京で開かれた関税特別会議においては、中国の
 関税自主権回復の要望に日本が協力する旨を公表し、中国側を驚喜させ、
 列国側を愕然とさせた。
 このときの日本側は、あまりにも中国に対して同情的であったので、アメ
 リカやイギリスの方にかえって不満が生じ、「日本は列国に抜け駆け
 している」とか、「幣原外交対支協調破りだ」という非難の声が上がるほ
 どだった。
 しかし、列国としても日本の正論と、それに対する中国側の熱烈賛同に
 は反対できず、結局は日本の声明に追随し、関税自主権回復の決議案を
 可決せざるを得なかった。
64文責:名無しさん:2001/08/15(水) 03:09
>>61
あまりにも、アホだったこと。
>日本軍の出先は軍の威信が傷つけられれば、事変拡大を阻止しようとする中央の意向を無視し、
>すぐに挑発に乗って反撃する従来の姿勢を、昭和11年、12年も続けたのである。
www.glocomnet.or.jp/okazaki-inst/okazaki.rokokyo.html
65文責:名無しさん:2001/08/15(水) 03:09
11.昭和二年に起った「第一次南京事件」では、南京に入った北伐軍が暴徒
 となって、外国領事館や外資系の工場や外人住宅を襲い、掠奪や暴行の
 限りを尽くした。
 佐々木到一の「ある軍人の自伝」によると、「逐日耳に入るところの事件
 の真相は悲憤の種だった。英米仏の軍艦はついに城内に向けて火蓋を切った
 のに、わが駆逐艦はついに隠忍した。しかも革命軍は、日清汽船の(ハルク)
 に乱入して、これを破壊し、わが艦を目標として射撃し、げんに一名の
 戦死者を出しておる。荒木大尉以下十二名の水兵が城門で武装を解除された。
 在留外人は全部掠奪され・・(略)わが在留民全部は領事館に収容され、
 しかも三次にわたって暴兵の襲撃を受けた。領事が神経痛のため、病臥中
 をかばう夫人を夫の前で裸体にし、薪炭庫に連行して二十七人が輪姦した
 とか。三十数名の婦女は、少女にいたるまで陵辱せられ、げんに我が駆逐
 艦に収容されて治療を受けた者が十数名もいる。根本少佐が臀部を銃剣で
 突かれ、官邸の2階から飛び降りた。警察署長が射殺されて瀕死の重傷を
 負うた。抵抗を禁ぜられた水兵が切歯扼腕してこの惨状に目を覆うていなけ
 ればならなかった、等々。しかるに、だ、外務省の広報には「わが在留婦女
 にして陵辱を受けたるもの一名も無し」ということであった。南京居留民
 の憤激は頂点に達した。居留民大会を上海に開き、支那軍の暴状と外務官憲
 の無責任とを同胞に訴えんとしたが、それすら禁止された、等々。実にこ
 れがわが幣原外交の総決算だったのである」
 日本領事館に派遣された荒木大尉は、途中で中国軍のために武装解除され
 暴行を受けた。荒木大尉はその時は艦長の指示を守って無抵抗に徹したが、
 釈放されて帰艦し、さらに重巡洋艦「利根」に移ったあと、その艦長室に
 おいて、日本の軍人として屈辱に堪えないと言って割腹したのである。
 これが日本国民を痛憤させ、幣原外交に対する不信感を醸成した。
66文責:名無しさん:2001/08/15(水) 03:11
12.「第一次南京事件」以来、列国の外交団は蒋介石に対し最後通牒に等しい
 抗議文によって、謝罪と首謀者の処罰を要求するとともに、ただちに軍事
 行動に出ようという意見が強くなった。この時、音頭を取ったのはイギリス
 である。これを知った幣原外相は、イギリスとアメリカの駐日大使を個別に
 呼んで、大要、次のような日本政府の見解を示した。
 「最後通牒を出した場合、それを受諾すれば、蒋介石は屈辱的譲歩をした
 と攻撃され、基礎の十分固まっていない蒋介石政権は潰れる可能性がある。
 そうすれば、国内はふたたび無政府状態になるであろう。これは十数万の
 居留民を有する日本にとっては危険である。また、蒋介石が拒絶すれば、
 出兵して懲罰することになろう。しかし、無数の心臓を有するに似た現状の
 支那を武力制覇することは長期になるであろう。多くの利害関係を持つ日本
 はそんな冒険に加わりたくない」。
 日本が最後通牒にも共同出兵にも参加しないというのでは、イギリスも
 アメリカもフランスもイタリアも、どうすることもできない。英米などの
 提案どおりのことが行われていたら、幣原の言うごとく蒋介石は潰れるか、
 全土が戦場になるかのいずれかであったろう。この時点で蒋介石の国民政府
 を救ったのは、まさに日本外交なのであり、それ以外の何ものでもない。
13.北清事件において、イギリス代理公使は、しきりに日本に出兵を要請したが
 日本は動かず、イギリス外相ソールズベリーリス侯(のちの首相)が欧州
 各国に根回しした上で、出兵を要請するに及んで、ようやく重い腰を上げた。
 そして一たび軍を出すや、その軍律は厳正にして、つねに連合軍の先頭に
 立って力戦敢闘し、列国を感嘆せしめた。しかも戦争が終わると、さっさと
 引き揚げ、外交交渉にも妥協的だった。
67  :2001/08/15(水) 03:12
どっちにしても、このババアは逝って良し!
68文責:名無しさん:2001/08/15(水) 03:12
日本は仕掛けられ、平和を申し込むがズルズルと深みにはまっていった

支那事変を仕掛けたのは中国共産党だ

昭和12(1937)年7月7日の深夜盧溝橋(ろこうきょう)で、中国側の
了解を得て日本軍が演習をしていました。
中国へ日本軍が駐屯していたのは、侵略の為ではありません。
清国が各国に対して(我が国も含む)駐兵権を認めていたのです。
その駐兵権に基づいて駐屯していたのです。日本人(当時朝鮮人を
含む)を守っていたのです。
その当時蒋介石軍と日本軍は親しくして何ら争いがなかったのです。
深夜突如として日本軍と蒋介石軍に不法射撃をして姿を消した者があ
ったのです。
両軍は互いに相手を疑い戦争が起きました。後になって劉少奇(リュ
ウショウキ:中国共産軍)がスターリン(ソ連)の命令で俺がやったと
名乗り出ました。これが支那事変となり、大東亜戦争にまで発展した
のです。
69特高:2001/08/15(水) 03:13
戦争に反対することが特高警察に逮穂される危険をはらんでいたことをあまり追求する人も少ないね。

特高こそ、日本自身の手で、全員処刑にすべきだった。
日本は日本自身の手で戦争のケリをつけていない。
特高は憲兵よりも恐ろしい。
戦争反対⇒令状なしで逮捕⇒爪の間に熱した針を刺す等拷問有⇒木刀で撲殺も有り。

特高を設立し運営したのだから、国家上層部の戦争責任は明白に存在する。
特攻大好きのよしりんは都合が悪いから特高は取り上げない。
モーニングのジパングのほうがごー宣より真実を書いてる。
売上もすぐゴー宣を抜くだろうしね。あっちのほうが面白いや。

ともかく、特攻は特高の遠因産物である。
70文責:名無しさん:2001/08/15(水) 03:13
我が国は不拡大の方針、侵略の意思全くなし

我が国は事件発生当初から不拡大方針をとり現地部隊は数度の不法
射撃に対しても、7時間にわたって一発の応射もせずに隠忍自重(いん
にんじちょう)を堅持しました。
又政府も陸軍中央も現地解決を期待して、3週間不拡大方針に基ずい
て事態の推移を注視し続けましたが、中国側の度重なる停戦協定違反と
背信に、7月28日遂に開戦に踏み切り翌29日平津地方に進攻したのです。

我が国は中国側へ停戦交渉を行う

天皇陛下は外交解決を御希望され、その御意志を体して政府、軍部は
一致協力、思い切った譲歩案で、中国側の要望をほとんど容れた寛大な
ものでしたが、日華交渉が開始された8月9日、支那保安隊による大山中
尉惨殺事件が上海に発生し、交渉は即日中止されました。戦火は拡大し
日華全面戦争となり、名称も支那事変となりました
71文責:名無しさん:2001/08/15(水) 03:14
南京陥落後平和を望む日本に戦争を煽(あお)ったルーズベルト

そして12月南京は陥落しました。
この間も我が国はドイツを仲介として「平和交渉」に努力したのです。
蒋介石は日本との戦争を止めたいとルーズベルトに申し出ましたが、ル
ーズベルトはそれを許さず、アメリカも手を貸すからと、抗戦の続行を
命じて蒋介石を励ましたのです。


米英は武器を持って中国軍に参加していた

イギリス、アメリカ、フランスは国際法による中立的立場を放棄して
蒋政権に援助行為を行い、物資のみならず蒋政権を助けた英米軍事顧問
団は数百にのぼり、武器をとって戦闘に参加した人は2千名を越えていた
のです。

米国は対日経済封鎖とビルマの援蒋ルートで圧迫した

英米は蒋介石を助け援助して、日本には経済圧迫を加えて、
支那の抗日戦意をあおり、日支の抗争をを長引かせ、泥沼化
させたのです。
事変解決を希望する我が国がビルマの援蒋ルート遮断を考えた
のは当然です。
昭和15(1940)年9月、我が国はフランスと2ヶ月の外交交渉
の末、松岡(外相)アンリ(駐日大使)協定を締結し、これに
基づき、支那事変解決までの一時的措置として北部仏印に若干の
部隊が駐屯することになり、わずか6千人以下でした。
72文責:名無しさん:2001/08/15(水) 03:16
米国は、日本のみを非難した

英国はそれより4ヶ月早く2万もの兵士をアイスランドに駐屯
させ、ソ連はバルト3国に10万の軍隊を進駐させていたのです。
白人の侵略は当然として認めていた時代だったのです。
国際道徳は大東亜戦争(太平洋戦争と米国はいう)後にようや
く成立したのです。


ルーズベルトは戦争の起こる危険を承知で日本に石油を止める

悪化した日米関係を好転させることと、支那事変解決促進のた
め、昭和16(1941)年から日米交渉が開始されました。
日本は屈辱的な譲歩を以て米国の意に添おうとしましたが、ルー
ズベルトは理解せず難航しました。
蘭印(オランダ、インドネシア)との経済交渉も米英の妨害策動で
不調に終わり、我が国はいよいよ自存自衛の途を確保する必要から
フランスとの協定に基づき、7月末南部仏印(ラオス、ベトナム)
に平和進駐しました。
この南部仏印進駐に対して米英蘭中は全面的に経済封鎖を行い、
ルーズベルトは我が国の在米資産凍結、全面的禁輸を行い英蘭(イ
ギリス、オランダ)も追随しました。
米国大統領ルーズベルトは、対日石油禁輸が戦争を導く危険を十
分に知っていてやったのです。ルーズベルトは我が国の南部仏印進
駐より3ヶ月早くグリーンランドに、又アイスランドに進駐していた
のです。
73文責:名無しさん:2001/08/15(水) 03:17
米、英首脳日本占領の密約

7月から8月にかけて日米関係は急迫し、近衛首相は首脳会談を決
意し、天皇陛下も望まれて、米側に申し入れましたがルーズベルトは
これを拒否しました。
ルーズベルトとチャーチルの米英首脳は大西洋で対日戦争での協力
を約束し合っていたのですから、我が国がどんなに誠意を尽くしても
日米交渉が進捗するはずがなかったのです。

ルーズベルトは頑固に姿勢崩(くず)さず

昭和16(1941)年9月6日御前会議が開かれ「外交努力を継続しつつ
も、10月下旬を目途に戦争準備を整え、10月上旬に至っても交渉が成
立しない場合は対米(英蘭)開戦を決意する」を決定しました。
10月下旬が過ぎても米国はかたくなに姿勢を崩さず、外交交渉は行
き詰(づ)まりました。我が国は石油禁輸以来、2ヶ月後には国家機
能は完全に停止する事が明白でした。
74文責:名無しさん:2001/08/15(水) 03:19
どうしても戦争をしたかったルーズベルト

東條内閣最後の最後まで平和努力、平和交渉を受けつけなかった
ルーズベルト

近衛(このえ)首相に変わって東條内閣が成立し、天皇陛下より
「9月6日の御前会議にとらわれず慎重に再検討するように」と思召
(おぼしめし)が伝えられ、東條首相は御意向を体して、甲案は支那
や仏印からの撤兵について具体的な条件や方法を示すなど我が国とし
ては重大な譲歩であり三国同盟などその他譲歩を含むものであり、
東京裁判の米国人弁護士ブレークニー氏は「日本の真に重大な譲歩は
東條内閣の作成した甲案であり、甲案において日本の譲歩は極に達し
た」と論じています。
又、乙案は甲案不成立の場合、戦争勃発を未然に防ぐ為の暫定(ざん
てい)協定案でした。
ルーズベルトは日本の切実な気持ちを知り尽くしながら11月7日甲案
を拒否し、11月20日乙案も拒否し、有名なハル・ノートを突き付けて
きたのです。
パール博士はこのハル・ノートについて「米国が日本に送ったのと
同一のものを他の国に通告すれば非力なモナコやルクセンブルク大公国
ですら必ず米国に対し自衛の為に武力をもって立ち上がったであろう」
と言っています。
「日米交渉は、最初から平和的解決をするチャンスは、100分の1もなか
った」 米国ハル国務長官供述書より
75文責:名無しさん:2001/08/15(水) 03:20
いずれにせよ、未だに東条の孫を白い目で見る社会はおかしいね。

苦しみと悲しみを分かち合うべきだ。
76文責:名無しさん:2001/08/15(水) 03:20
ルーズベルトの恐ろしい陰謀

ルーズベルトは「攻撃を受けた場合の外は国民を戦場に送らない」と
いう公約をしていたので、日本から攻撃させる必要がありました。
老朽船3隻に米国旗を立てて、日本軍艦に接近させ、日本軍艦に接近
させ、日本軍が撃ってくるのを挑発したのです。
しかし、日本は静かにしていました。
米国アナポリスの海軍研究所から『ラニカイ号の巡洋航海、戦争への
挑発』という書物にルーズベルトの陰謀が暴露されています。
「どのように日本を操(あやつ)って我々の損害は少なく、いかに最初
の一発を発射させるように追い込むかが問題だとルーズベルト大統領は
語った」 米国スチムソン陸軍長官の日記より

先制攻撃はアメリカであった

ルーズベルトの苦労にもかかわらず、日本のハワイ襲撃1時間20分前に
公海において米国は日本の潜水艦を攻撃して撃沈させているのです。
そして海軍司令部に「日本の潜水艦を撃沈せり」との暗号電報を発して
いたのです。
敗戦後、日本が米国へ無通告でハワイを襲撃したと逆宣伝されて日本国
民でも信じている人が多いのですが、米国との戦争も米国が先制攻撃をし
たのです。
※参照 米国海軍ヒューウィット調査機関提出書類第75(1945年6月7日)
による。
日本語訳は『現代史資料』35巻(みすず書房)407ページ〜409ページ
77文責:名無しさん:2001/08/15(水) 03:24
東條が関東軍参謀長になったのは昭和12年3月。
徳王への工作は昭和11年末。田中隆吉大佐の発案。
78長野県知事田中康夫と申します:2001/08/15(水) 03:26
ところで石原莞爾の一族はどう思うんだろうねえ
79文責:名無しさん:2001/08/15(水) 03:26
>>69
そういう状況を作ったのが国民であり、その国民はマスコミのせいもあるけど、
政府の平和外交に不満を持って、軍部を支持したんだよ。
軍部も極限まで戦争に発展することを回避したんだけど。
80文責:名無しさん:2001/08/15(水) 03:27
>>76
いや、潜水艦の攻撃は些末なこと。日本軍が、アメリカの領海に勝手に
進入したのだから。
在米大使館員が、アメリカに対する宣戦布告の通知を遅らせたのが痛かった。
山本五十六はその事実を知った後、激怒している。
81文責:名無しさん:2001/08/15(水) 03:30
◆米「真珠湾」直前に日本爆撃を計画
(1999/7/15の産経新聞からの引用です)

大統領署名の作戦文書 国立公文書館で発見
中国支援、1941年9月想定

真珠湾攻撃の直前に米軍が中国を支援して日本爆撃を計画していたことを
示す公文書が明らかになった。米国立公文書館で米統合本部の戦略案と、
その実施をフランクリン・ルーズベルト大統領(当時)が了承した関連文献が
見つかった。
当時、中立国だった米国は日中戦争で劣勢にある中国支援を極
秘裏に進めるため、爆撃機とパイロットを中国に送り込むことを計画し、爆撃
案が作成された。
卑劣な奇襲だったとされる真珠湾攻撃に対し、米側でも宣戦布告なき攻撃を
計画していたことになる。

 この公文書は「JB355」と呼ばれる一九四一年五月十日から七月十八日
にかけての九十七枚に及ぶ当時の統合計画委員会と統合本部(JB)、大統領補
佐官らによる中国支援計画遂行書および許可書だ。

 問題のルーズベルト大統領の署名のある申請書は、一九四一年七月十八日付の
パターソン暫定陸軍長官とノックス海軍長官連名で大統領に承諾を求める内容
になっている。
82文責:名無しさん:2001/08/15(水) 03:31
「ルーズベルト欺瞞の日々」の方が詳しいんだろ。

アメリカは一年以上前から奇襲を予想してたらしいが。
83文責:名無しさん:2001/08/15(水) 03:32
 内容を要約すると「ラクリン・カリー大統領特別補佐官の要請に基づき、米統
合本部(米統合参謀本部の前身)は中国政府に対し航空機を提供することを承諾し
たので、大統領の承諾を要請する」となっており、これに対しルーズベルト大統
領は手書きで一九四一年七月二十三日の日付とともに「OK、FDR(大統領の
署名)」と承諾、さらに「しかし、(計画遂行にあたって)在中国米アタッシェ(武
官)を使うか、別の軍事ミッションを送り込むかを再検討せよ」と付け加えていた。

 中国における対日軍事行動は米陸海軍基本戦争協議で作成されたレインボー計
画2号で、中国軍を使った日本軍攻撃案が提案されており、その計画にそった内
容だと強調している。

 さらに当時の中国国民党政府の非効率性から支援が無駄になる可能性が高く、
爆撃機だけでなく米軍パイロットを義勇軍として投入する必要性を強調し、三段
階にわたる日本攻撃案が詳述されている。

 戦術目標としては中国雲南省に展開する国民党軍とビルマ(現ミャンマー)から
雲南省に至るルートの防衛、さらに日本本土の工業地帯への爆撃で日本軍の分
散と攻撃力の減退を促し、日本の戦争能力を減じるという戦略目標をあげている。

 具体的にはこの作戦に三百五十機のカーチス戦闘機、百五十機のロッキード・
ハドソン爆撃機を使用するとし、問題の日本本土爆撃を含む第二段階は、二百機
の戦闘機と百機の爆撃機によって早くて九月には実施できるだろうとしていた。
84文責:名無しさん:2001/08/15(水) 03:33
 また、大阪、神戸、京都、東京、横浜の爆撃には軽くてしかも木造住宅の多い
日本民家に効果のある焼夷(しょうい)弾を使用すべきである−などとするアーノ
ルド少将による六月十一日付の報告書も計画案に添付されていた。

 しかし、この日本爆撃案は、当時、欧州戦線で英国が米爆撃機を大量に必要
とし、さらにマーシャル米陸軍参謀長も欧州戦線を重視したため、爆撃機を中国
に輸送するのを遅らせたことから予定通り実施できず、十二月七日(日本時間八日
未明)、日本側が真珠湾攻撃に踏み切った。

         ◇

 問題の「JB355」の一連の文書は本来極秘扱いだったが、五八年から七一年
にかけて段階的に公開された。最初にこの爆撃計画の重要性に気づいたのはアリゾ
ナ大学歴史学科のシャーラー教授で、論文の一部に使用したが、あまり注目されな
かった。

 また、真珠湾攻撃五十周年記念の一九九一年に米放送局が、米側に日本爆撃計
画が存在したのではないかとの話を関係者証言を中心に取り上げた経緯がある。

《「蒋介石支援」に重点》

 田中宏巳防衛大学校教授(近代日本軍事史)「これまで米軍による中国軍への
補給に関する研究はあったが、米国が爆撃機やパイロットを派遣し、日本爆撃ま
で計画していたとは初めて聞く。当時の米国が中国大陸の軍事情勢に踏み込んで
いたことを示す資料だ。蒋介石を支援する政治的な意味合いが大きいようにも思える」
85文責:名無しさん:2001/08/15(水) 03:35
◆日本参戦の背後にソ連工作「ハル・ノート」
(1999/8/22の産経新聞からの引用です)

米に強硬提案提示
米国の対日最後通告「ハル・ノート」を作成したルーズベルト政権の財務次官、
ハリー・デクスター・ホワイト氏が実はソ連スパイだったことがわかったこと
で、「米国の対日政策の背後にソ連工作があった」というショッキングな事実
が明るみにでた。
当時の日本はいずれ参戦せざるを得ない状況にあったとの見方はあるが、参戦の
過程にソ連の工作があったという事実は歴史解釈の見直しを迫るものだ。

 ホワイト氏がハル・ノートの原案を作成したことは、ニューヨーク郊外にあ
るルーズベルト大統領記念図書館に残されたホワイト氏作成の対日強硬提案か
ら明らかにされている。
しかも、そのホワイト案をモーゲンソー財務長官がルーズベルト大統領に提案し、
より穏健なハル国務長官の対日妥協案を押しのけることになったというエピソー
ドも四五年にスタートした米議会真珠湾攻撃調査委員会で明らかになっている。

 だが、経済専門のホワイト氏がなぜ米外交を左右するほどの影響力を行使する
ようになり、しかも、対日強硬案を作成した意図は何だったのかという疑問が
残されてきた。
86文責:名無しさん:2001/08/15(水) 03:36
 ホワイト氏とハル・ノートをソ連工作が結んでいたという解答は、
VENONA資料によるスパイ活動の証明とともにソ連NKVD(人民内務
委員部=後のKGB)工作員で、後のKGB高官、パブロフ氏の退役後の回
顧録が埋めることになった。

 同回顧録によると、当時のソ連指導部は、日本の軍事的脅威を取り除くため
に米国の対日参戦を早急に進める「スノウ作戦」にとりかかっており、その
作戦に最も重要な役割を果たしたのがルーズベルト政権内で最も影響力のあ
るホワイト氏だった。
パブロフ氏はホワイト氏と四一年五月にワシントン市内のレストランで接触し、
米国が日本に対し中国および満州からの撤退、さらに日本軍の所有する武器の
三分の二を米国に売却しなければならないとする提案を早急に作るよう指示した
という。
実際、その指示どおりの強硬なハル・ノート原案が同年六月に作成されている。

 当時、米国は対日禁輸などいわゆるABCD包囲網を展開し、日本は追いつ
められた状況だったが、その一方で、平和解決のための日米交渉が続けられた。
また、日本側でも宣戦やむなしとの強硬意見の一方で、米との妥協を求める声
もあったのである。
米側の交渉当事者であるハル国務長官も対日宣戦は避けられないだろうが、ま
だ時期尚早とし、あの時点での強硬な提案には消極的だったことが回顧録で明
らかにされている。

 そうした中、日本側でさえ驚いたほど強硬な「ハル・ノート」が提示された
ことが歴史上の謎(なぞ)とされてきたが、VENONA資料などによってソ連
の存在が明らかにされ、新たな歴史解釈の必要性がでてくると考えられる。