東条英機の孫と言うおんなの勘違い

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93竹槍事件
1944(昭和19)年2月23日付『毎日新聞』は、東条内閣の閣議決定「非常時宣言」をトップに、その下段での「勝利が滅亡か、戦局はここまできた」、「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ。海洋航空機だ」との海軍の指導によって書かれた記事を掲載する。これに東条は激怒し記事の差し押さえを行ない(この差押は夕方ですでに朝刊は配達済だった)。さらに毎日は、これに追い打ちをかけ、同日付の夕刊で「一歩も後退許されず、即時敵前行動へ」と東条の本土決戦を否定し「海空軍力を速やかに増強して太平洋戦争」と東条の感情を逆撫でにする記事を掲載する。当然のことながら東条は、「統帥権の干犯だ」といきまいた。
23日付朝刊の記事は、学徒動員や国民勤労動員を徹底化し、全国民を死地に追いやろうととしていた東条の「一億玉砕」の本土決戦論に対して痛棒を与えるために書いたと執筆者の新名丈夫(しんみょうたけお)は述べている(新名丈夫『太平洋戦争』115頁)。
この記事を巡り、海軍省は「本日の毎日新聞の記事は、全海軍のいわんと浴するところをのべております。部内の絶賛を博しています」と興奮した面持ちで評価、陸軍省では、東条が「けさの毎日新聞をみたが、なぜ処分しないのか、竹槍で勝てぬとは反戦思想だ」と身を振るわせて怒鳴ったのである。
間髪をいれず陸軍は、1926(大正15)年の徴兵検査で兵役免除になっていた37才の新名を招集する。まさに懲罰招集であったが、新名2等兵は陸軍丸亀連隊に前代未聞の「1人入隊」するところとなる。
http://cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/takeyarijiken.htm