朝日新聞の戦争責任

このエントリーをはてなブックマークに追加
昭和8年8月11日信濃毎日新聞朝刊
評論 関東防空大演習を嗤う
 防空演習は、かつて大阪に於ても、行われたことがあるけれども、一昨九日か
ら行われつつある関東防空大演習は、その名のように、東京付近一帯にわたる関
東の空に於て行われ、これに参加した航空機の数も、非常に多く、実に大規模な
ものであった。そしてこの演習はAK(NHK)を通して、全国に放送されたから、
東京市民は固よりのこと、国民は挙げて、もしもこれが実戦であったならば、そ
の損害の甚大にして、しかもその惨状の言語に絶したことを、予想し、痛感した
であろう。というよりも、こうした実戦が、将来決してあってはならないこと、
又あらしめてはならないことを痛感したであろう。と同時に、私たちは、将来か
かる実戦のあり得ないことを、従ってかかる架空的なる演習を行っても、実際に
は、さほど、役に立たないだろうことを想像するものである。
 将来、もし敵機を、帝都の空に迎えて、撃つようなことがあったならば、それ
こそ、人心阻喪の結果、我はあるいは、敵に対して和を求むるべく余儀なくされ
ないだろうか。なぜなら、此時に当たり我機の総動員によって、敵機を迎え撃っ
ても、一切の敵機を射落とすことは能わず(できず)、その中の二、三のものは、
自然に、我機の攻撃を免れて、帝都の上空に来り、爆弾を投下するだろうからで
ある。そしてこの討ち漏らされた敵機の爆弾投下こそは、木造家屋の多い東京市
をして、一挙に焼土たらしめるだろうからである。(中略)
 投下された爆弾が火災を起こす以外に、各所に火を失し、そこに阿鼻叫喚の一
大修羅場を演じ、関東地方大震災当時と同様の惨状を呈するだろうとも、想像さ
れるからである。しかも、こうした空襲は幾たびも繰り返される可能性がある。
 だから、敵機を関東の空に、帝都の空に、迎え撃つということは、我軍の敗北
そのものである。この危険以前に於て、我機は、途中これを迎え撃って、これを
射落とすか、又は撃退しなければならない。戦時通信の、そして無電の、しかく
発達したる今日、敵機の襲来は早くも我軍の探知し得るところだろう。これを探
知し得れば、その機を逸せず、我機は途中に、あるいは日本海岸に、太平洋沿岸
に、これを迎え撃って、断じて敵機を我領土の上空に出現せしめてはならない。(中略)
 帝都の上空に於て、敵機を迎え撃つような作戦計画は、最初からこれを予定す
るならば滑稽であり、やむを得ずして、これを行うならば、勝敗の運命を決すべ
き最終の戦争を想定するものであらねばならない。(中略)特にそれが夜襲である
ならば、消燈してこれに備うるようなことは、却って、人をして狼狽せしむるの
みである。科学の進歩はこれを滑稽化さねばやまないだろう。なぜなら、今日の
科学は、機の翔空速度と風向と風速を計算し、如何なる方向に向かって出発すれ
ば、幾時間にして、如何なる緯度の上空に達し得るかを精知し得るが故に、ロボッ
トがこれを操縦していても予定の空路に於て寧ろ精確に爆弾を投下し得るだろう
からである。(中略)特にかつても私たちが、本誌「夢の国」欄に於で紹介したよう
に、近代的科学の驚異は、赤外線をも戦争に利用しなければやまないだろう。こ
の赤外線を利用すれば、如何に暗きところに、又如何なるところに隠れていよう
とも、明に敵軍隊の所在地を知り得るが故に、これを撃破することは容易である
だろう。こうした観点からも、市民の、市街の消燈は、完全に一の滑稽である。(後略)