朝日新聞の戦争責任

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211朝日戦時報道のルーツ
5・15事件で異議を唱えたが、結局は軍に屈す
 ただ、満州事変後、朝日新聞は軍部批判を全く止めたわけではなかった。例えば、
昭和7年に発生した国家改造を唱える海軍青年将校らによるクーデター未遂事件
「5・15事件」では、大阪朝日がテロを実行した将校らを厳しく批判している。
 深刻な不況下の農民や労働者の貧困、政治腐敗などを背景に起きた同事件は、当
時の犬養毅首相が首相官邸で現役の軍人に射殺されるという前代未聞の事件だった
が、テロ実行者は後に自首するなどして逮捕された。
 同年5月16日付け大阪朝日朝刊社説「帝都大不穏事件 憂うべき現下の世相」は
「陸海軍の軍服を着したるものの暴行(警視庁発表)なりというに至りては、言語道
断、その乱暴狂態は、わが固有の道徳律に照らしても、また軍律に照らしても、立
憲治下における極重悪行為と断じなければならぬ」とした上で、「今回の団体的暴
挙は、仮令その動機に如何ようのもの含まるるも国憲擁護のうえからその行為はこ
れを厳罰に処し、またと再び斯くの如きことの繰り返さざるよう国民一般に戒慎し
なければならぬ」と社説でもテロやファシズムを排撃する論陣を張った。
 東京朝日や読売などの各紙が事件参加者に同情的で、政治の無策を責める社説を
掲げたのとは大違いで精彩を放っている。しかし、5・15事件に関連した大阪朝日の
軍部批判の社説はこの2回で終わる。全国紙が沈黙する中、同事件を執拗に追求し、
軍部を非難したのは地方紙の「福岡日日新聞」(現西日本新聞)のみであった。
 この主張を最後に朝日からは軍部を批判する姿勢が急速に失われる。特に2・26事
件(昭和11年)で朝日は息の根を止められたといえるだろう。
 同事件は5・15事件同様、軍の一部将校達が反乱軍を組織し、クーデターを企図。
高橋是清蔵相、斉藤実内大臣らを殺害した後、東京朝日社屋などを襲撃したのであ
る。事件は発生後4日目の2月29日に反乱軍が鎮圧され、クーデターは失敗に終わ
るが、この事件の鎮圧に当たった軍の勢力は増し、日本はファシズム体制を固めた
のである。
 東京朝日が事件発生から4日後に掲載した社説「一億臣民一致の義務」(同2月29
日朝刊)は「二十六日早暁、帝都に起こりし大不祥事は、国の内外の驚きであり、今
更いう言葉を知らぬのであるが、これを機会に国体を一層安泰にし、政治の刷新に
邁進することが、国民全体の負担する第一の義務であると信ずるのである」と軍部
の暴走への批判は全くなく、国民に政治の刷新を求めるというトンチンカンなもの
であった。
 翌日の東京朝日社説に至っては反乱という不祥事を招いた軍首脳部の責任を追及
するどころか、反乱を鎮圧した軍当局に敬意を発表するという内容だった。
 このように朝日は軍の圧力や暴力の前に結局は屈服した。ズルズルと軍の意向に
従い、時には自ら進んで先回りして軍の片棒を担ぐ姿勢は、太平洋戦争突入前から、
既にでき上がっていたのである。