朝日新聞の戦争責任

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209朝日戦時報道のルーツ
戦争報道ほど儲かるものはない?
 もちろん、朝日だけがこのような報道をしたわけではない。新聞各社はこぞって
大量報道、速報合戦に明け暮れた。一方で各社の報道の中身は劣悪だった。朝日を
含め当時の新聞紙面をみると、@軍の発表を受け、事態の変化を追認しただけの報
道、Aセンセーショナルな話や写真を好んで掲載する傾向、B日本軍を善、中国軍
を悪とする勧善懲悪型報道、C誇張された戦場、銃後の美談報道ーなどの特徴があ
る。事件の本質を伝えるというより、日本軍の進撃に夢中になった読者が喜びそう
な紙面作りが目立っている。
 読売新聞の社長だった正力松太郎は、満州事変の際「戦争は新聞の販売上絶好の
機会」と語り、それまで手が出せなかった夕刊を発行し成功したという。新聞各社
は部数拡大にのみ血眼になり、このような紙面を作り上げていたのだろうか。
 このように朝日を始めとして各新聞は軍部に不本意ながら屈服したどころか、過
剰に同調、迎合した。そして、言論統制で強いられた以上に自ら進んで戦争を肯定
し、敵国への憎悪をかきたて、国民を戦争に駆り立てたのである。
 しかも、朝日は紙面だけで戦争を煽ったわけではない。満州事変に関する講演会
や映画上映を頻繁に行ったのである。特派員による満州事変報告演説会は東日本で
70回開かれ、聴衆は合計60万人、映画班による事変のニュース映画の上映は、1501
カ所で4002回公開され、1000万人の観衆が訪れた、という。
 さらに、軍に物資や資金を提供する企画も実施した。例えば、昭和6年10月16日
付け大阪朝日新聞朝刊には「満州に駐屯の我軍将士を慰問、本社より一万円、慰問
袋二万個を調製して贈る」と題した社告が載る。社が費用を負担して満州の前線将
兵に日用品など様々な品物を詰めた慰問袋を送るという試みで、直接軍を支援した
のである。これと同時に読者に対しては慰問金募集も呼び掛け、短期間に巨額の慰
問金を集めている。
 この企画はその後の日中戦争(昭和12年)、太平洋戦争(昭和16年)時に受け継がれ、
「軍用機献納運動」などの形に発展する。同運動は朝日新聞社主催で同社や読者か
らの献金で軍に航空機を納める運動であった。満州事変時の慰問袋、慰問金運動は、
朝日が物資、資金を軍に直接提供する第一歩であった。