朝日新聞の戦争責任

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208朝日戦時報道のルーツ
満州事変後は部数拡大
 しかし、満州事変支持を決めた朝日新聞にとって、この方針転換は部数拡大と
いう点では好都合だった。「朝日新聞社史 資料編」(朝日新聞社)によると、事変
前の昭和5年の部数は大阪、東京を合わせて約168万部だった。事変が勃発す
る同6年はいったん約143万部に落ち込むが、事変が拡大した同7年は約182
万部に急増。「朝日新聞社史 大正・昭和戦前編」(同)にも「事変発生とともに
朝日新聞の部数はふえつづけ、七年二月二十九日には「事変以来今日にて東朝二
十万、大朝二十七万余部増加・・・・・・」と記録される増加ぶりだった」とある。
 テレビはおろか、ラジオすら一般に普及していない時代。日本軍が急速に占領
地を拡大していった満州事変に国民の関心、興味が集中する中で、朝日新聞は飛
ぶように売れたのである。
 控え目な報道で部数が伸びたのではない。朝日は社を挙げて満州事変の報道体
制を強化し、読者をあおったのである。当時のデータをみると、いかに満州事変
報道に力を入れていたかがわかる。例えば、「朝日新聞社史 大正・昭和戦前編」
によると、昭和6年9月現在の中国大陸に展開する朝日の特派員は10人だったが、
同年末には38人に達している。
 また、「兵は凶器なりー戦争と新聞1926-1935」(前坂俊之、社会思想社)によれ
ば、当時の朝日は他社を上回る5機の航空機を保有していたが、事変の翌日から
これらを活用して現場写真を空輸した。このため事変勃発直後は朝日に掲載され
た写真は速報性で他社を圧倒した。
 号外も連発した。同書によれば、昭和7年1月に開催された「東西朝日満州事変
新聞展」で展示されたデータとして、号外の数は昭和6年9月11日から昭和7年1月
10日までの間で計131回に及び、日によっては朝夕刊の2度の号外が発行され
たという。
 また、事変を扱った社説は54回。海外からの電報である特電は普通は1カ月
50通から100通であるのが、事変発生当日は162通、9月中が360通、
事変発生から12月末までで3785通に上ったという。

朝日発行部数の推移
年 大阪本社 東京本社 西部本社 名古屋 全社合計
5  979,500 702,244・・・・・・・・・1,681,744
6  914,400 521,228・・・・・・・・・1,435,628
7 1,054,000 770,369・・・・・・・・・1,824,369
8 1,041,100 844,808・・・・・・・・・1,885,908
9 1,138,500 885,007・・・・・・・・・2,023,507
10 897,600 913,342 302,900・・・・・2,113,842
11  861,300 1,011,190 346,000  84,608 2,303,098
12  940,600 1,042,188 365,200  96,818 2,444,806
13  938,800  990,530 440,900 111,291 2,481,521
14  974,000 1,114,759 472,100 121,484 2,682,343
15 1,111,000 1,203,889 579,500 171,367 3.065,756
16 1,228,000 1,354,810 715,700 200,717 3,499,227
17 1,334,700 1,377,842 777,700 232,606 3,722,848
18 1,553,600 1,350,088 759,100・・・・・3,662,788
19 1,567,300 1,369,280 732,800・・・・・3,669,380
20 1,285,800 1,401,163 551,800・・・・・3.238.763