朝日新聞の戦争責任

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204朝日戦時報道のルーツ
右翼の申し入れに満州事変支持?
 その満州事変後、大阪朝日の論調はどう変わったのか。事変発生直後の昭和6
年9月20日朝刊の「日支兵の衝突 事態極めて重大」と題した社説では中国兵が
満鉄爆破を企てたのをきっかけに、日中両軍が衝突したと伝える各種情報を前提
に、「わが守備隊が直ちにこれが排撃手段に出たことは当然の緊急処置といわね
ばならぬ」と関東軍の行動を容認。ただ、「本事件は一局部のものとして速やか
に解決を図りたい、全面的の衝突となるを極力避けなければならぬ」と武力衝突
の拡大防止を訴える冷静さも残している。
 ところが、同10月1日朝刊の「満蒙の独立 成功せば極東平和の新保障」と題
した社説は事変前の論調と一変する。「満州に独立国の生まれ出ることについて
は歓迎こそすれ反対すべき理由はないと信ずるものである」と満州の独立を認め
る社説を載せたのである。これはそれまで、満州は中国の一部としてきた大阪朝
日の主張から百八十度転換するものだった。
 関東軍は満州の武力占領後に、日本が思うがままに操れる傀儡国家樹立を画策
していた。満州を見かけは独立国にし、実質的には日本の植民地にしようという
野望であった。大阪朝日は軍部に都合の良い主張に変わったのである。
 なぜ、大阪朝日の主張が短期間にガラッと変わったのか。元朝日新聞記者が書
いた「辛亥革命から満州事変へ 大阪朝日新聞と近代中国」(後藤孝夫 みすず書房)
はその理由を分析している。それによると、社論転換の直接の原因は軍部と密接
な関係にある当時の右翼の巨頭、内田良平から圧力がかかったことだとういので
ある。満州事変直後の昭和6年9月24日夜、内田は井上藤三郎大阪朝日調査部長と
料亭で会談。内田は知り合いの井上部長を通じ、大阪朝日幹部に面会を求めてい
たが、幹部の代わりに井上部長が応対したという。
 当時の幹部の日記によれば、翌25日に大阪朝日は役員会を開催、時局問題につ
いての社論統一などについて話し合った。席上、内田の忠告について報告があり、
高原操大阪朝日編集局長の「満蒙放棄論」の流説に関し、新聞紙上で広告を出す
ことにして、案を決定し散会したという。
 美土路昌一(昭和33年〜昭和42年かけ朝日新聞社長)の戦後の追想によれば、広
告とは高原編集局長の満州に関するそれまでの論説が軍首脳らから満州の放棄論
だと抗議を受けたため、高原名で東西両朝日新聞に掲載されることになった釈明
文とされる。
 その広告は美土路の追想では「まるで謝罪広告である」という内容だった。こ
のため美土路はこんなものをのせたら、軍部に降伏したと物笑いになると考え、
軍首脳と話し合い、結局謝罪広告は闇に葬ったという。
 内田は朝日社員の会談、翌日の役員会議、そこで議題となった謝罪広告ー。こ
れらを考えると、「大阪朝日を震駭させたのは、直接には軍部の威を借る内田の
申入れである。暴力に抗する方法なしというのが、村山社長変身の理由であろう
が、いったん屈した以上、<聖戦>への協力を阻む歯止めはもうありようがなかっ
た」(「辛亥革命から満州事変へ」)との結論は説得力を持つ。
 10月中旬、朝日新聞の満州事変に対する社論が統一される。それを示す決定的
な証拠が残っている。大阪憲兵隊が軍中央に提出した大阪朝日新聞、大阪毎日新
聞両社内の動向に関する秘密報告である。それによると大阪朝日では10月12日に
重役会議を開き、軍批判を中止し、軍を支持すること、あわせて東京朝日にも同
調させることを決定しているのである。