朝日新聞の戦争責任

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202朝日戦時報道のルーツ
満州事変で転向
 朝日新聞はもともと軍部の片棒をかつぐ宣伝機関、戦争推進機関であったわけ
ではない。戦前にはむしろ軍部批判や戦争への反対姿勢を明確にしていた時期も
あった。いつ、なぜ、どのように朝日は変貌をとげたのか。
 朝日新聞の論調が劇的に変化するのは、日本が中国への侵略を本格化する満州
事変(昭和6年)以降である。満州は現在の中国東北部。日本は日露戦争の勝利に
より、南満州鉄道(満鉄)と満州の旅順、大連の租借権をロシアから引き継ぎ、事
変前には南満州に大きな勢力を打ち立てていた。
 これらの権益を、満州と隣接する内蒙古の地名から、当時「満蒙権益」と呼ん
だ。事変前には日本国内で叫ばれた「満蒙問題」とは満蒙権益の維持をめぐる問
題であり、「満蒙の危機」とは中国に対し様々な権益を持ち、中国を半植民地化
する日本や欧米諸国の支配を打破しようとする中国の民族主義高揚が、日本の満
蒙権益を脅かしたことを指す。南満州に駐留していた日本軍の出先部隊、関東軍
は満蒙権益を維持、拡大するため、満州の武力占領を計画した。
 この結果、勃発したのが満州事変である。関東軍は中国軍が満鉄線路を爆破す
るとともに日本軍を攻撃したので、自衛のため応戦したと虚偽の発表をしたが、
線路爆破は関東軍の自作自演が真相で中国軍を攻撃する口実を得るための謀略だっ
た。
 満州事変前の朝日新聞は、大正デモクラシーの流れを受け継ぎ、自由主義的、
民主主義的な傾向が強い新聞と位置付けられていた。当時の朝日新聞は経営母体
はひとつであったが、大阪朝日新聞と後発の東京朝日新聞に分かれ、別々の編集
をしていた。この内、特に大阪朝日新聞は軍備縮小や軍部批判の論調を強く打ち
出していた。しかし、事変勃発後は日本軍の侵略行動を全面的に支持し、読者に
軍への協力を訴え、戦意高揚を図る論調に急転回する。