朝日新聞の戦争責任

このエントリーをはてなブックマークに追加
 こうした疑問はともかく、朝日はこの社告で対外的に戦争責任にケリをつけた
のは事実である。しかし、その数年後には、再び疑問を感じさせる出来事が起き
る。昭和26年、辞職したはずの村山は会長、上野は取締役として経営に復帰、そ
の後村山は社長、上野は会長に就任し、昭和39年まで経営の実権を握るのである。
 さらに、同じく辞職した上野精一の息子、上野淳一も昭和45年に取締役に就任
するとともに社主の座につく。取締役こそ平成6年に退いたものの、現在(平成7
年7月現在)も社主として君臨しているのである。
 今でも政治家や企業経営者は、不祥事などが起こるといったん辞職し、一定期
間をおいて復帰するケースが多いが朝日新聞の場合も同様だ。
 太平洋戦争で約250万人の日本人が死亡し、日本を除くアジアの約2000万人
が命を落としたといわれる。朝日新聞がその戦争の片棒をかついだのは紛れもな
い事実である。その朝日新聞の経営者は、一定期間経営から離れれば、”みそぎ”
は済んだと判断したのだろうか。
 一方、村山、上野らとともに戦後すぐに責任をとって辞めた他の幹部達はどう
なったか。「国民と共に立たん」が発表された当時退職した幹部などのその後を
>>194に示した。ほとんどの幹部は国会議員、企業経営者など見事なまでの”転身”
を遂げ、各分野でリーダー的な地位についている。さすがは朝日新聞というべき
か、会社を辞めた後でも、受け皿はたくさんあったようだ。
 一方、現場の記者を監理した部長職にいた人々はどうなったのであろうか。表
には敗戦時の東京本社各部の主な部長とその後の経歴も示した。昭和20年10月の
戦争責任をめぐる社内騒動の際、「その責任は現全部長に及び、その地位を去る
べきものなりとの意見に一致せり」と決議したはずの部長達の多くは、そのまま
社内に残り、ほとんどが社内で出世。中には長谷部忠のように社長にまで登りつ
めるなど、幹部として活躍した。
 村山、上野をはじめ、戦争中部長などの重職にいた人達、あるいは戦争をあお
るような記事を書いた記者達が戦後の朝日新聞をリードしたとすれば、社内には
過去の歴史を素直に見つめ、反省する姿勢は生まれにくかったのではないだろう
か。むしろ、戦争に導いた戦中の「朝日人」の姿勢が、脈々と受け継がれた可能
性の方が大きかったとはいえないか。
 50年前の朝日新聞の体質が、今は残っていないことを祈るばかりである。