朝日新聞の戦争責任

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177幹部同士が責任のなすり合い
 村山派が動いたのは昭和20年10月15日。緒方派残存勢力を封じ込め
る強行人事を打ち出したのである。その内容は千葉雄次郎に辞任を求
め、細川隆元、佐佐弘雄を編集局参与という閑職につかせる一方、主
筆兼編集責任担当重役に村山腹心の鈴木文四郎、東京編集局長に北野
吉内を据えるものであった。
 この強行人事に細川らは反発。16日夜、細川ら編集幹部6人は料亭
に集まり、打開策を協議し、翌17日に村山と会見。@社長・会長は退
任し、社主となる、A全重役と東京、大阪、西部の編集局長、論説主
幹の総退陣、などを進言した。「村山一派も道連れに」といえるよう
な反撃を行ったのである。
 この反発には別の理由もあったようである。細川ら6人組のひとり
である佐佐弘雄論説主幹の息子で自らも朝日の記者だった佐佐克明が
書いた「病める巨象 朝日新聞私史」(文藝春秋)は、当時の細川ら
の心境をこうみている。
 もしこの辞令をすんなりのめば、うっかりすると、世間は千葉・細
川を朝日新聞社の戦争責任者として受けとりかねない。さらには、朝
日代表の”戦犯”であるかのように、占領軍の目に映ずるかもしれな
かった。そういう危険性は、たぶんにあったのである。
 つまり、おとなしく千葉・細川が辞めれば、朝日新聞の軍部協力路
線の紙面づくりは、千葉・細川に全責任がある、と”人身御供”とし
て、首をさしだすようなことになる心配があった、ということだ。(中略)
 戦犯追及が、どの線までひろがり、どんな処置がとられるのか分ら
ない時点での異動である。
 当事者の千葉・細川のほか、香月保・大阪編集局長、白川威海・西
部編集局長(故人)と嘉治・佐々両論説主幹の六人が、村山社長に対
して辞令の撤回を求めるにいたったのは、責任転嫁の気配を察したか
らであり、それがとうとう社内に点火しつつあった火気を炎上させて
しまったのだ。
 六人組にしてみれば、社内での戦争責任ならびに社外に対する言論
責任について、原田代表、鈴木常務らが、すべてを「緒方系になすり
つけるのではないか」と推測したとしても当然であったろう。
 この見方が正しいとすれば、朝日幹部達には素直に過去の過ちを反
省する姿勢はまるでうかがわれない。責任を細川らになすりつけ、社
内で優位な立場を保とうとする村山派、自分達だけが戦争責任を取ら
されるのを避け、責任を分散化しようとする細川ら。戦争に駆り立て
られた当時の読者が、この見苦しいまでの幹部の対立を知ったら、ど
う思ったろうか。