朝日新聞の戦争責任

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 時は終戦間際。「実録朝日新聞」にはさらに次のようなエピソードが出てくる。

 終戦の五日前に下村情報局総裁談話によって「戦局は最悪の状態」と
発表されたのが、日本の敗戦を示唆した初めての政府声明であったが、
もちろん一般国民にはそれを知る由もなかった。日本の舞台裏では九日
から十日にかけて、最高戦争指導会議幹部会、臨時閣議、最高戦争指導
御前会議が相次いで開かれ、政府の態度はポツダム宣言受諾、すなわち
無条件降伏の方向に向かって急角度に動き出していた。
 新聞社にだけはこの情報が入ったので、新聞社で問題になったのは、
編集方針をどうするかの問題だった。問題は二つあった。一つは対外的
の問題で、ポツダム宣言受諾の条件すなわち日本の国体の問題、天皇
制の問題に対して、もう一ぺん連合国と交渉を行うこと、もう一つは対内
的の問題で軍がおとなしくこれに従うかどうかの問題である。
 二つともなかなかデリケートな問題だから、あまり先走って新聞作製の
態度が敗戦を嗅わせると、かえって問題をこじらせ、特に軍を刺戟して、
戦争終結に支障を与えることにならぬとも限らず、新聞はむしろ知らぬ顔
をして、従来の「国体護持、一億団結」を表に出していった方がよかろうと、
私は自分の編集方針を堅持していた。もちろん数日中に、敗戦による戦争
終結が到来するとの客観状勢は、はっきりと把握しつつも・・・・・・。編集総長
の千葉雄次郎もまったく私と同意見であり、また政治部長の長谷部忠も
全然同じ線を歩いていた。
 現にこういうことがあった。あの八月十日に、前に述べたように下村情報
局総裁の敗戦示唆の声明が出たのに対抗して、陸軍では陸相阿南惟幾
の「全軍に告ぐる」の訓示を発表した。
「・・・・・・断乎、神州護持の聖域を戦ひ抜かんのみ。仮令(たとえ)草を喰み
土を噛り野に伏するとも断じて戦ふところ死中自ら活あるを信ず(中略)」
という、まことに激越な戦争継続の声明であった。すでに敗戦を知ってい
た新聞人にとっては、むしろ悲痛のセンチメンタリズムとして受け取れた
のである。
 政治部長の長谷部がやって来て、
「いま陸軍から、このような一億玉砕にも等しい声明が出て、さきの下村
声明の狙いとまったく矛盾するもので、すでに敗戦ときまった以上、この
陸相声明はボツにして抹殺すべきだという強い意見が政治部内に出て
いて、いま激論最中である。しかし僕はこれは新聞に掲載すべきである
と主張している。だから載せたいと思う。この際の新聞の使命は、国全体
がスムーズに終戦になるような役割を果すことで、急激に紙面の調子を
変えることは、かえって思わぬ刺戟を軍や世間に与えて、国内動乱など
を引き起こさぬともかぎらぬ。だからこんな強い意見も一方に出しておい
た方がよいと思う」といった。