『「つくる会」に反対する掲示板』観察スレ2

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480バカにされてるよ
389 名前:お勉強ちまちょうね。 投稿日:2001/06/30(土) 19:17
91)161頁 浮世絵の黄金時代
「美術の分野では、世界にほこる、真にすぐれた作品が次々と生み出された」
(意見) 錦絵と文人画が「世界に誇る真にすぐれた作品」と評価される根拠は?評価が主観的にすぎる。

92)161 頁 浮世絵の黄金時代
「彼(北斎)の「富嶽三十六景」や「諸国滝廻り」を見ると、江戸初期に伝わっていた西洋絵画の遠近法や陰影のつけ方を完全に消化した上で、独自の空間表現を行っていることが分かる」
(意見) 西洋絵画の遠近法等の手法を研究し、まず取り入れたのは北斎ではなく司馬江漢や平賀源内である。享保期以来の一部蘭書輸入を契機とし、それ以降司馬江漢や平賀源内らが西洋画法を学び試行錯誤のうえ表現したのであって、誤った記述である。

93)164 頁 新しい学問の発展
「また、伊勢松阪の医師本居宣長は『古事記』など日本の古典の研究をとおして、儒教や仏教の影響を受ける以前の、日本人の素朴な心情を明らかにした。特に皇室の系統が絶えることなく続いていること(万世一系)が、日本が万国にすぐれるゆえんであると説いて、国学を発展させた」
(意見) 「万世一系」の語は近代に成立したものであり、これを宣長の思想として記すのは不適切。

94)165 頁 新しい学問の発展
「一方、頼山陽の『日本外史』は、日本の歴史をたくみに記述して広く読まれ、日本人の国民としての自覚を養った」
(意見) 根拠が不明である。
481バカにされてるよ:2001/06/30(土) 19:26
390 名前:お勉強ちまちょうね。 投稿日:2001/06/30(土) 19:18
[5] 第4章「近代日本の建設」、第5章「世界大戦の時代と日本」
1, 内容の選択と視点の問題点
(1) 米とアジアの比較における「軍事力」の偏重
171頁、「しかし、ひとたび平和が回復されると、日本と中国の両国では、ともに銃砲火器への関心がうすれ、軍事技術の開発に格別の注意が払われなくなった。東アジアにはその後、約250年間、のどかで平和な時代が続いた。この間、西洋諸国は、ひたすら軍事力の強化に努めた。およそ16〜18世紀は、西洋における驚異的な軍事力発展の3世紀として知られる。」
178頁、「約250年もの平和が続いた江戸時代に、日本は軍事力を退化させていたので、実際に攘夷を行うことは不可能だった。」
<コメント>
 ペリー来航時における欧米列強と日本の強―弱の問題を、ひたすら軍事力の問題に還元し、その前提をなすところの、生産力・社会構造の差違に言及していない。「平和」な東アジア→軍事力の衰退→軍事強国=欧米列強の登場という図式によって理解している。
(2)安易な比較文化論
174〜175頁、中国の文化的特徴の記述
184〜185頁、日本=武家支配、中国・朝鮮=文官支配論
<コメント>
 19世紀後半における日本、中国、朝鮮の欧米進出に対する対応の差は様々に解釈されてきたが、多くの研究者がこのような安易な比較文化論・文明論で説明してはこなかった。すくなくとも、そもそも三つの地域にかかった外圧の種類が同質であったのか、という問いが前提である。(この教科書では、欧米が同じように進出してきて、日本と中国・朝鮮が別々に対応したと考えられている)。たとえば、アヘン戦争時点と日本開国時点でのイギリスの対日政策の差、太平天国の乱・インド大反乱が欧米諸国の日本政策に与えた影響など。遠山茂樹『明治維新』(岩波書店、1951年、45〜52 頁)の古典的な議論を参照のこと。
(3) 特定時期の「国益」の実体化
195頁、「これは、明治維新の指導者たちの、時代の先を見抜く目の確かさを物語っている」

196頁、「このころ、徴兵制が国民に受け入れられ、国難に対する意識が、民衆レベルにまで広く行き渡ったことを物語っている」
208頁、「日本の独立と名誉を守るのが、当時の日本人に課せられた命題であった」

221頁、「小村の判断は正しかった。日英同盟はこののち20年間、日本の安全と繁栄に大きく役立った」

238頁、「勝利がもたらした新局面に、当時の日本人が十分に対応する事は困難だった」

298頁、「ソ連の脅威から自国を防衛するという日本の国益」

<コメント>
 この教科書の執筆者たちは、「歴史を学ぶとは、今の時代の基準からみて、過去の不正や不公平を裁いたり、告発したりすることと同じではない」(6頁)と言いながら、過去の特定の状況において、日本の「国益」(あるいは「国難」)が具体的に何であったかを設定して、それによって政治行動の正・不正を判断しようとしているように思える(二十一か条要求について、245頁の「中国のナショナリズムを軽視した行動」という評価は、中国のナショナリズムに配慮した行動を取ったほうが、より「国益」につながったという含みがあるように読め、この系列に属す記述である)。
482バカにされてるよ:2001/06/30(土) 19:27
391 名前:お勉強ちまちょうね。 投稿日:2001/06/30(土) 19:19
(4) 記述の省略による不整合
240頁、「日露戦争後、日本は韓国に韓国統監府を置いて支配を強めていった」
242頁、「かわった第三次桂内閣は、議会というより藩閥内閣に基礎を置くもので」
<コメント>
 記述対象の選択が恣意的であることから、必要な記述を省いたことにより、後から唐突に記述が必要になっている箇所である。日露戦争の争点が朝鮮半島であったこと、そして日露戦争中に韓国の植民地化を進めていたことを述べていないため、突如「日露戦争後」に、「支配を強め」ということになる。また、明治憲法の制定過程において自由民権運動の記述を圧縮し、明治14年の政変についてもふれておらず、明治憲法下での内閣の性格についても記述していないから、大正政変で突然「あいかわらず藩閥内閣」と言われても、何のことかわらからない(「藩閥政府」自体の説明は 212頁)。
(5) 日米関係理解の一面性
257頁〜259頁、日米関係の記述
<コメント>
 日露戦争、日系移民排斥問題、ワシントン会議という長期にわたる日米関係の推移を、一括して、15年戦争の直前に置くという叙述の順序は異常である。おそらく、記述の内容からして、日米開戦の原因をそれらの中に一貫して見出すという視角であろうと思われる。しかし、このような記述のスタイルは、時系列の恣意的な組替えという点でも好ましくないし、ワシントン体制がそれなりに安定した体制として日本に受け入れられ、原・政友会内閣の対米協調外交や、民政党内閣の幣原外交を、ひいては「大正デモクラシー」を支えていた点を無視している。むしろこのような視角(日米開戦宿命論)は、1930年にロンドン軍縮条約反対を唱えて政局の表舞台に登場する、海軍の「艦隊派」(加藤寛治ら)の主観に沿ったものであるが、1920年代には彼らは一貫して少数派であった(麻田貞雄「日本海軍と対米政策および戦略」、細谷千博他編『日米関係史 開戦に至る10年2』、東京大学出版会、1971年、88頁〜94頁)。
(6) 被害と加害のバランスの悪さ
288頁、「日本も例外ではない。日本軍も、戦争中に進攻した地域で、捕虜となった敵国の兵士や民間人に対して、不当な殺害や虐待を行った。一方、多くの日本の兵士や民間人も犠牲になっている。例えば第二次世界大戦末期、ソ連は満州に進入し、日本の一般市民の殺害や略奪、暴行をくり返した上、捕虜を含む約60万人の日本人をシベリアに連行して、過酷な労働に従事させ、およそ1割を死亡させた。またアメリカ軍による日本への無差別爆撃や、原爆投下でも、膨大な数の死傷者が出た」
295頁、「今日、この裁判については、国際法上の正当性を疑う見解もあるが、逆に世界平和に向けた国際法の新しい発展を示したとして肯定する意見もある」
<コメント>
 総じて、日本側の「被害」については、数字を挙げて具体的に詳しく記述するのに対して、日本による「加害」については、簡潔・抽象的に記述する傾向がある。仮に東京裁判の国際法上の地位について「正当性を疑う見解」を紹介するならば、韓国併合条約についても、朝鮮半島の研究者の間には「正当性を疑う見解」があることも指摘せねばなるまい。
(7) 被支配者の不在
194頁、「明治政府は三つの強力な制度改革、すなわち学校制度・徴兵制度・租税制度の改革をおし進め、近代国民国家としての基盤を固めた。この三つは、やがて国民の側から就学の義務、兵役の義務、納税の義務として広く一般に意識されるようになる」

196頁、「日清戦争ではみずから志願する義勇兵も平民からあいついだ。このころ、徴兵制が国民に受け入れられ、国難に対する意識が、民衆レベルにまで広く行渡ったことを物語っている」
<コメント>
 記述の中心は一貫して政府の動向であり、被支配者はそれに呼応する存在として描かれる。政策は上から下へと自動的に浸透するかのようなイメージをもって描かれており、それが引き起こす権力と社会との摩擦がほとんど描かれない。民権運動をはじめとして、政府に対抗的な運動の記述が著しく圧縮されている。