『「つくる会」に反対する掲示板』観察スレ2

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293こんなんありました
268 名前:お勉強するニダ 投稿日:2001/06/23(土) 02:18
[1]『新しい歴史教科書』全体にかかわる問題点
 扶桑社版『新しい歴史教科書』は、他の教科書と大きく異なる内容の教科書であり、中学校で歴史を学ぶ子どもたちの教材としてふさわしくない問題点を数多く含んでいると思われる。また、歴史学の初歩的知識の欠如を思わせる誤りも数多く見られる。なかでも、以下の諸点は、原始古代から近現代にいたるまで、記述全体にみられる問題点として重要であろう。
 (1)広い視野から国際関係をとらえ、そのなかでの歴史を考えるという姿勢に欠けること。特に、アジアのなかの日本という視点が欠如していること。
 (2)社会のなかの多様な人々、とくに被支配層やマイノリティに属する人々の記述が少なく、その結果、社会構造や、社会と政治権力との相剋・葛藤などがきちんと描かれないこと。
 (3)歴史の見方について、「歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶこと」と述べながら、実は近代における一定の立場から積極的に歴史的事象を裁断する教科書であること。
 (4)「日本」とか「日本人」を主体としてその意志や感情を情緒的に叙述するという方法が多用されていること。
 (1)と(2)については、[2]以下で各時代ごとに指摘することとし、(3)、(4) について、ここで簡単に述べておきたい。
 (3)について
 「(班田収受法が)国民生活にとって、公正の前進を意味していた」(56頁)とか、「(教育勅語は)非常時には国のために尽くす姿勢、近代国家の国民としての心得を説いた教えで……近代日本人の人格の背骨をなすものとなった」(215頁)という記述にみられるように、この教科書は、随所で、「国家」「国民」「日本人」などが、超歴史的に存在するかのごとく記述し、またこれらの語を用いて歴史的事象を評価している。しかし、日本列島に形成された国家はそれぞれの時代によって異なる固有の内実をもつものであり、またこれらの概念は、主として近代の国民国家形成にともなってうみだされたものであることも明らかである。
 著者は、これらの概念を用いて、どのような歴史的諸事象の評価をおこなうのだろうか。江戸城開城についての「幕府や各藩の『私』の利益を離れて、日本という『公』の立場に立つ歴史的決断がなされた」(189頁)という記述や、「版籍奉還によって、全国の土地と人民は天皇(公)のものとなった」といった記述には、“日本という「公」”、“「公」=天皇”という考え方が明確に示されており、天皇を中心とした国家という発想が著者の歴史評価の基礎にあることが窺える。天皇を中心として「国家」、「国民」、「日本人」といった概念を理解し、原始・古代から現代までの歴史をそれにもとづいて評価しようとするのは、「過去の人が過去の事実についてどう考えていたのかを学ぶ」という著者の主張にも反しており、また、近代の一定の政治思想に立脚して歴史全体を裁断しようとするあらっぽく歪んだ見方といえよう。

  (4)について
 「日本」「日本人」を主体として、その意志や感情を情緒的に記述する文章が多用されているのがこの教科書の特徴のひとつである。「頼山陽の『日本外史』は、日本の歴史をたくみに記述して広く読まれ、日本人の国民としての自覚を養った。」(165頁)、「明治の日本人はどんなにか心細かったであろう」(184頁)、「国民もしだいに軍部に期待を寄せるようになった。」(265頁)、「多くの国民は良く働き、良く戦った。それは、戦争の勝利を願っての行動であった。」(284頁)のような記述が数多く存在する。
 これは、冒頭の「歴史を学ぶとは」において、「歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどのように考えていたかを学ぶことなのである」という方針に基づいているのであろう。しかし、「過去の人」は多様であるはずであり、「日本人」一色に塗りつぶせるわけはない。対外関係・政治・戦争といった諸事件に同時代人がどのような意志・感情を抱いたかは重要な研究テーマであるが、そのような問題はきわめてデリケートな史料の取扱と、同時代人の慎重なグルーピングを要求される作業であり、そういったテーマを取り扱ったいずれの研究も、この教科書のような粗雑な結論を導いてはこなかった。(諸階層における天皇観の差を問題にした安丸良夫『近代天皇像の形成』(岩波書店、1992年)の第八章「近代天皇制の受容基盤」や、立身出世願望を媒介とする体制への統合の論理を問うた広田照幸『陸軍将校の教育社会史』(世織書房、1997年)などを参照)。

 以下、本意見書では、原始・古代から現代までの記述を具体的に検討し、それぞれの章ごとに、時代像の把握と視点にかんする問題点、事実の誤りや不適切な表現などを指摘する。
294こんなんありました:2001/06/23(土) 02:35
269 名前:お勉強するニダ 投稿日:2001/06/23(土) 02:25
[2] 第1章 原始と古代の日本
1, 内容の選択と視点の問題点
(1)神話の扱い
 「新しい歴史教科書」の原始・古代部分の大きな問題点は、事実と神話を混同しかねないような神話の記述態度である。
 はじめに、神話の記述量についてみてみよう。第1章「原始と古代の日本」の部分は61頁であるが、そのうちの神話物語のストーリーを述べた記述が7頁、さらに「日本語の起源と神話の発生」に2頁が費やされ、全体の1割以上を占めている。このような神話の偏重は、戦前・戦中の歴史教科書を彷彿とさせるばかりでなく、その度合いは、戦前の歴史教科書を越えている。たとえば、戦前の中等教育において、中学校歴史科用『改訂新編国史教科書』(辻善之助著)は、明治38年初版発行以来昭和の初めまで長く用いられた教科書であるが、『新しい歴史教科書』第1章に相当する27頁のうち、神話の引用による記述は244行で、2頁に満たない量であり、特に神武天皇以前の物語については、「我国体の特長」として6行ほど触れているだけである。「新しい歴史教科書」の神話物語の多さは戦前の中等学校教科書を大きくうわまわっている。
 『新しい歴史教科書』は、このように大きな比重をしめる神話について、内容や位置付けについてきわめて一面的な取り上げ方をし、検定修正後も、神話を歴史的事実と混同しかねない記述態度は捨てていない。
 戦前の初等教育をみると、大正9年出版の第3期国定教科書『尋常小学国史』以降、神話が歴史教科書に具体的に記述されるようになるが、敗戦時にいたるまで、「八岐のをろち」の話などは、“国史”の教科書には書かれなかった。それらの物語は、「歴史的事実ではないので、これを国史ではなく、国語読本の神話物語教材とする方針」(海後宗臣『歴史教育の歴史』、東京大学出版会)から、戦前にあっても歴史教科書からは省かれ、国語教科書に物語教材として登場していたからある。もちろん、当時の子どもたちは、「国史と国語の両者の教材を結び合わせて歴史の理解を立てていた」(海後前掲著)のであり、神話と歴史的事実は全く混同されていたと思われるが、「八岐のをろち」の物語まで記載する『新しい歴史教科書』の姿勢は、戦前の歴史教科書に比してもきわめて特異である。
(2)国際関係の把握について
 国際情勢の記述内容・分量に偏りがある。
 1) 日本の優位性を主張するために偏った理解に終始することが多い(朝貢の位置付けなど)。
 2) 最低限必要であろう世界史の知識(例えばギリシア・ローマ、シルクロード、宋など)の説明が全くなく、一方で、日本に関する事柄は必要以上に詳しい。

(3)恣意的な解釈
 また、『新しい歴史教科書』は、「国家」「公」を強調する立場からすると不都合な諸事実(たとえば浮浪・逃亡)に全く触れない。こうした諸事実の意味が顧みられないため、歴史の流れを説明するときに苦しいつじつま合わせが行われる。これは同書が自己の主張に都合の良い事実だけを恣意的に選択した結果であり、「歴史認識」以前の問題と言わなければならない。
295こんなんありました:2001/06/23(土) 02:41
270 名前:お勉強するニダ 投稿日:2001/06/23(土) 02:30
2,事実・解釈の誤り
 以下の記述は、下記の順序によっています。
  通し番号、頁 小見出し
   記述 「 」
   (意見)

1)18頁  本書の使い方
「皇統譜」(52頁表も)
(意見) 「皇統譜」は明治・大正期に確定、登録させたものであるが、語句の説明が全くなく、即位順の根拠を棚上げしている感がある。そもそもここまで即位順にこだわる必要があるのかも不審である。

2)24頁 縄文文化
「森林と石清水の生活文化」
(意見) 検定によって「縄文文明」が「縄文文化」と修正されたが、四大文明と日本の縄文文化を対比させる文脈に変わりはなく、「四大文明と縄文文化を同列に比較できるかのように誤解するおそれ」(検定意見)は消えていない。

3)29頁 西日本から東日本へ
「ちょうど明治時代の日本人が和服から洋服にだんだん変わったように、外から入ってきた人々の伝えた新しい記述や知識が、…もともと日本列島に住んでいた人々の生活を変えていった」
(意見) いわゆる『倭人』の形成は諸説あるが、この時期に渡来した人々もその中に含まれるのは確かである。修正前の、「外からはいってきた少数の人々の知識や技術」を、上のように改めたが、明治時代の例えは、依然として「少数の人々」であったという修正前の理解に基づいており、誤解を与える表現である。

4)33頁 邪馬台国と卑弥呼
「魏志倭人伝を書いた歴史家は、日本列島にきていない。それより約40年前に日本を訪れた使者が聞いたことを、歴史家が記していると想像されているにすぎない。…」
(意見) 伝聞したことを書いた、そのことも想像されているに過ぎない、ということか。意図不明。史書の編者が、史書に書かれているすべての事柄を自ら経験しているのではないことは常識であり、それを理由に魏志倭人伝の価値をおとしめるのは正しくない。


5)38頁 朝貢
「大和朝廷の軍勢は、百済・新羅を助けて、高句麗とはげしく戦った」
(意見) 新羅と高句麗が連合して倭と戦ったこともある。すなわち、広開土王碑には、倭が新羅・百済を破ったこと(391年)、倭が新羅に侵入し、新羅が高句麗に救援を求めたこと(399年)なども記されているのである。4世紀末から5世紀初の倭が、百済・新羅を一貫して援助し、高句麗と対立していたように叙述するのは誤り。あるいは高句麗を北朝鮮に類比したうえで、高句麗のみが日本に敵対していた、という図式を無理に描こうとしたことによる記述かと推察される。
296こんなんありました:2001/06/23(土) 02:42
6)38頁 朝貢
「高句麗と北魏は陸続きであったのに対し、宋、百済、倭の三国は海をへだてていた。そのため、不利な同盟関係であった」「百済と任那を地盤とした日本軍の抵抗にあって、征服は果たせなかった」
(意見) 高句麗との戦いの中心が日本であるかのような記述はおかしい。百済と任那に恒常的な日本の政治的基地が築かれていたかのような表現も誤り。4〜5世紀の段階で「日本軍」という用語を使うのも不適当。また、朝貢=同盟関係、という理解が散見されるが、他所で朝貢を「臣下の国になる」(38頁)「臣従」(39頁)「服従」(44頁)とあり、同盟という概念は不適切である。また陸続きか否かが「同盟」の有利不利の材料になるとするが、一面的な理解である。

7)39頁 技術の伝来と氏姓制度
「大和朝廷の頂点に立つ人は大王〈王をうやまったよび方〉とよばれ、まだ天皇のよび名はなかった」
(意見) 天皇うんぬんは文意不明。「『天皇』という呼び名はなかった」かという意味か。しかし「よび名」とは何か不明瞭。また「大王」はすでに34頁に見え(「地方の豪族たちの上に立つ大王」)、ここで「王をうやまったよび方」と説明する必然性はない。この「王」は、「くに」の「王」(29頁)とも混同しかねない。

8)39頁  コラム「中華秩序と朝貢」
「日本は古代においては朝貢などを行った時期はあるが、朝鮮やベトナムなどと比較し、独立した立場を貫いた」
(意見) 日本も室町期に朝貢を行っており、誤った記述である。また、朝鮮・ベトナムと日本の安易な比較はできない。さらに、朝貢如何が「独立した立場」に直結するような誤解を与える。

9)40頁 大和朝廷の自信
「大和朝廷の自信」
(意見) 「自信」と認識する根拠は何なのか不明。これは同書が否定する「今の時代基準から」(6頁)みた評価ではないのか。修正後も直っていない。

10)40頁 大和朝廷の自信
「6世紀になると……あれほど武威をほこっていた高句麗が衰退し始め」
(意見) 6世紀中葉、高句麗では安蔵王の殺害(531年)や安原王から陽原王への王位継承(545年)などの内紛があったが、598年以降の隋の侵攻を撃退しており、高句麗が衰退していたと簡単にいうことはできない。