南京大虐殺は無かった!

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786文責:名無しさん
 ジェッフリー英国領事やベイツの主張からもわかるように、安全地帯内で
 非行が横行したのは、陥落から二週間である。
 そして、その二週間を境に、非行が激減し、鎮静化していった。
 では何がきっかけとなったのか?それは12月24日から一斉に開始された住民登録
 、良民票の配付である。
 それによって逃げられないと観念した支那兵が武装解除され、二千人が市民とし
 て認められた。しかし、それ以外の支那兵は素性がばれることなく良民票を手
 に入れることが出来たのであろう。
 その結果、市民数が二十万から二十五万に増えている。
 つまり、市民として認められたことによって、危険を冒して撹乱工作をする
 必要がなくなったことで、沈静化したのだろう。

 反日宣伝を目的とした、「国民党政治部第三庁」が「宣伝は作戦に優先する」
 とのスローガンで活動していた。
 彼らは「南京虐殺」は主張しておらず、1948年「抗日戦回想録」で初めて
 郭沫若が主張する。おまけに彼は陥落時、南京にいなかった。
 同じく、宣伝部隊として「国民革命新編第四軍」というものがある。
 項英は第四軍成立から1938年末までの工作を振り返って、「抗日戦一年来
 の経験と教訓」について演説したが、項英は何度も南京に触れながら、一度
 も「南京虐殺」に言及しないばかりか、「恒常的な、またわが方の人員によ
 る南京城内での 撹乱 が行われた」と語った。

 ベイツはその主張の核心部分(捕虜の違法殺害)(市民殺害)がことごとく
 公式記録から削除されて以降、その国際法違反の主張をしなくなった。
 東京のアメリカ大使館付武官コーヴィルが南京の外国人達と情報交換をして
 いた時でさえ。

 中野陣中日記。陥落以降もゲリラ戦を仕掛けられていた。
 大寺隆陣中日記。陥落以降もゲリラ戦を仕掛けられていた。
 佐々木到一少将私記。武器、便衣兵の摘発。
 スティールの記事。陥落以降もゲリラ戦を仕掛けられていた。

 終戦後の「南京地方法院検察敵人罪行調査報告」はもちろん日本兵の
 暴行を主張しているが、その南京市民に対する聴き取り調査において、
 日本の罪行を訴える者が「甚だ少なき」、南京虐殺説を聞くと、人々は
 唖然として「冬の蝉の如く口を噤みて語らず」、また、南京虐殺を
 「否認する者」までいた、と報告している。