南京大虐殺は無かった!

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666文責:名無しさん
「第一六師団第二〇連隊 牧原信夫上等兵の日記」

〔一一月十八日〕

ある中隊の上等兵が老人に荷物を持たせようとしたが、老人が持たないからといって橋から蹴倒して小銃で射殺しているのを目前で見て可哀想だった。

〔一一月二二日〕

道路上には支那兵の死体、民衆および婦人の死体が見づらい様子でのびていたのも可哀想である。
 橋の付近に五,六個の支那軍の死体がやかれたり、あるいは首をはねられて倒れている。話では砲兵隊の将校がためし切りをやったそうである。

〔一一月二六日〕

(中略)自分たちが休憩している場所に四名の敗残兵がぼやっと現れたので早速捕らえようとしたが、一名は残念ながら逃がし、あと三名は捕らえた。兵隊達は早速二名をエンピ(小型シャベル)や十字鍬で叩き殺し、一名は本部に連行、通訳が調べたのち銃殺した。

〔一一月二七日〕

支那人のメリケン粉を焼いて食う。休憩中に家に隠れていた敗残兵をなぐり殺す。

〔一一月二八日〕

午前十一時、大隊長の命令により、下野班長以下六名は小銃を持ち、残敵の掃討に行く。・・・・・・自分たちが前進するにつれ支那人の若い者が先を競って逃げていく。何のために逃げるのかわからないが、逃げるものは怪しいと見て射殺する。
 部落の十二,三家に付火するとたちまち火は全村を包み全く火の海である。老人が二,三人いてかわいそうだったが命令だから仕方がない。次ぎ、次ぎと三部落を全焼さす。そのうえ五,六名を射殺する。意気揚々とあがる。

〔一一月二十九日〕

武進は抗日、排日の根拠地であるため全町掃討し、老若男女をとわず全員銃殺す。敵は無錫の戦で破れてより全く浮き足立って戦意がないのか、あるいは後方の強固な陣地に立てこもるのかわからないが、全く見えない。

〔一二月一日〕

途中の部落を全部掃討し、また船にて逃げる二名の敗残兵を射殺し、あるいは火をつけて部落を焼き払って前進する。呂城の部落に入ったおりすぐに徴発に一軒家に入ったところ三名の義勇兵らしきものを発見。二名はクリークに蹴落とし、射殺する。一名は大隊本部に連行し手渡す。

(「京都師団関係資料集」「南京難民区の百日」および「南京事件」 笠原十九司 所載)
南京戦に於ける軍民殺害について

「日本軍に包囲された南京城の一方から揚子江沿いに女、子どもをまじえた市民の大群が怒濤のように逃げていく。そのなかに多数の中国兵がまぎれこんでいる。中国兵をそのまま逃がしたのでは、あとで戦力に影響する。そこで、前線で機関銃をすえている兵士に長中佐は、あれを撃て、と命令した。中国兵がまぎれているとはいえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士はちゅうちょして撃たなかった。それで長中佐は激怒して、「人を殺すのはこうするんじゃ」と、軍刀でその兵士を袈裟がけに斬り殺した。おどろいたほかの兵隊が、いっせいに機関銃を発射し、大殺戮となったという。」

(「最後の殿様」徳川義親 「天皇の軍隊と南京事件」吉田裕 所載)
667文責:名無しさん:2001/06/17(日) 03:54
殺戮に用いられることの多かった日本刀について

「今度の事変では、飛行機の発達から、日露戦争の時のように、大兵集団の会戦というような事が、徒に兵を損ずるのみなので、自然、分散的な陣形をとり、彼我少数を以って、所在に白兵戦、格闘戦を演ずる機会が多くなった。殊にゲリラ戦術、便衣隊潜入等の後方撹乱戦其他で、一面恐ろしい器械化戦が行わるると共に、多面一騎打の原始戦が盛んに行われ、戦風は一部元亀天正に逆戻りしたかのようなところさえある」
「これは今度の事変ばかりでなく、日清日露から西南役維新戦争に遡って見て、実際乱戦中に敵とわたり合って血戦した事実は、小説や講談にあるようにそうザラにあったものでは無いらしい。殊に今度の事変などでは、いざ接戦となると敵は逃げ足となり、一人斬つて二人目に及ばんとする時は、早二間も三間も離れて居るというような場合が多く、実際十人も二十人も斬ったというような話は、例えば敵を城壁域内際とか袋路地のような所へ追いつめ、ひしめき合いわめき合う処を片っ端から滅多斬りにした時などの事で、そうした将兵の血刀を手にし、状況を聞いてみると、四五人斬ったかと思う頃、多くの場合血がぬるぬると柄に伝わって来る」


(成瀬関次「戦ふ日本刀」 「南京大虐殺−まぼろし化工作批判」洞富雄 所載
ただし、旧仮名遣いなどは改めてある。)
※成瀬関次氏は日中戦争期に刀剣修理技術者として大陸にわたり、数多くの損傷刀の修理を行った。その彼曰く、「概して日本刀は強靭なものである」そうです。上記の引用からもわかるように、日本刀での斬人は結構行われていたようで、「日本刀では何人も斬ることはできないから、百人斬りなんてウソだ」などという話には説得力がない、という事になりますな。
668文責:名無しさん:2001/06/17(日) 03:54
日本刀による捕虜殺戮の様子・旧陸軍将校鵜野晋太郎氏の記録より

「 私は常用の貞光を引き抜くと、一息入れて剣背(峰、つまり刀の刃の背)を軽く村長の首に当て、間合いを見て足の位置を定め、今度は刃部を前に戻し乍ら一気に振り下ろした。
 "ドスッ"と鈍い手応えと同時に、噴水の如く、二、三本と吹き出す血。村長の首は胴体より僅かに早く落ち、顔は苦悶に歪み、歯はガチガチと砂を噛んだ。凄愴、無惨。漂う血の匂い。・・・・・・つづいて私は四十がらみの村幹部の後方に廻った。
 (先ずはうまくいったが、目釘はどうかな。刀の曲りは出たかな?)
 目釘は異状ないが、刀身は僅かに曲りが出たようだ。
 (大丈夫だ。連続してどこまでいけるか、やるんだ)
 次の首に剣背を当てるや、返して振り下ろす。そして三人、四人目へと息もつかせず斬った。だが四人目は八分通りの斬れ方で首は胸に垂れて倒れた。
 (失敗だ!落着け!)
 私は強いて笑顔を試みたが、泣き面になってしまった。
 「おい!警戒兵、そこの水桶を持ってこい!」
 私はひったくるようにして水桶の水で刀の血糊を拭いた後、タオルを刀身に巻いて切先から四〇センチのところに膝をあてがい、右に約五度曲がったのを両手でぐいと元に戻したが、僅かな曲がりは残った。
 (エイッ、あとの五人を殺らなくちゃ)
 そのとき、聞き覚えのある不気味な歌−「抗日歌」を、五人が涙を流して斉唱し始めた。低く怒りの気概が迫る。
 「止めろ!止めないか!よーし、斬ってやる」
 だが不安がふとよぎった。−(貞光の目釘はかなり緩んどる。これ以上緩めば刀は使えないぞ。でも父の祐定※に取り替えて使うべきではない。勿論郭劉湾で一度血を吸わせたが、父の魂として祐定は一旦緩急の決戦の秋まで静かに保管した方がよいと決心してきたではないか。この母の魂たる貞光は昭和新刀だが、据え物でもこんなに曲るとは思わなかった。しかしここで父の祐定に取り替えては母の貞光を汚すことになる。そうだ!母のためにも断じて貞光で斬ろう!)
 そのとき五人の斉唱は止んでいたが、悲痛な鳴き声は続いていた。私は一段と凶暴に刀を振るって斬った。目釘は更に彎曲して緩み、鍔元がガタガタになって来た上、再び刀身の四〇センチまでが右五度に曲がった。そのため二人斬首して曲りを直し、また二人斬っては直して、ようやく最後の九人目の首を斬り落とした。首を完全に落としたのは一番目と九番目だけであった。
 血の匂いは暫らく消えなかった。鉄柵の中の捕虜の集団は、涙を拭おうともせず立ちすくんでいた。」

(鵜野晋太郎「日本刀怨恨譜」 「南京大虐殺否定論13のウソ」南京事件調査研究会 柏書房より)


※鵜野氏は日本刀を二振り持っていて、「祐定」は父から贈られた関ヶ原新刀。「貞光」は母から贈られた昭和新刀。日本刀は一般に古い物ほど鉄の質がよく、とうぜん、古刀ほど強靱かつ切れ味がよい。鵜野氏は古刀に比べナマクラと言われる昭和新刀で、九人もの捕虜を斬殺している。このことからも一応マトモに作られている日本刀は強靱かつ、斬人に適しているのである。
669文責:名無しさん:2001/06/17(日) 03:55
<日本刀余談>
 私の知る限りで、日本刀の強靱さを示す例としては、幕末期に信州真田藩にて行われた刀剣試しの逸話がある。山浦真雄という名工の鍛えた剣を、藩で採用するに値する代物かどうか、強靱さを試すため、生鉄を斬ってみたり、兜を斬ってみたり、果ては鉄杖で打ち据えたりもしてみたそうだが、ほとんどびくともしなかったそうである。少々別格ではあるにせよ、強靱さを示す一例である。
 また、日本刀の茎(なかご・柄に差し込まれている部分)にはしばしば、「二ツ胴」とか、「三ツ胴」とか象嵌されているものがあるが、これは、刑戮された囚人の死体を二つ、三つ重ねたものを一刀で両断した(すなわち強靱な斬れ味の保証付き)、という意味で、そういうものが残っていること自体、日本刀の鋭利さ、強靱さを示すものであるといえよう。
 テレビのチャンバラなどを見ていると誤解しやすいかもしれないが、日本刀はズッシリとした鉄のカタマリなのである。中身がぎっちり詰まったカタイカタイ鋼鉄の棒に刃がついているような代物なんであって、ちゃんと鍛え上げられている物ならば、そうそう簡単に折れたり、殺傷力がなくなったりはしないのだ。日本の誇る高度な鍛鉄技術に基づく伝統工芸品でもあるのだから、折れやすいとか、そんなに斬れないとか、「自虐的」になる必要はないのだけど?
670文責:名無しさん:2001/06/17(日) 03:56
南京事件に関する、中国側の記録
「江浦県誌」
一二月二七日、日本軍四〇人が村々を捜索してまわり、農民や難民一七人を殺害、婦女六人を強姦。

(「南京事件」笠原十九司、岩波書店 所載)

「江寧県誌」
一二月下旬、上坊で婦女一〇名が強姦され、陰部に鉄棒を刺して殺害される。三八年一月八日、陸郎村で県城から避難していた市民が、「敗残兵狩り」で一〇〇余人殺害される。そのとき婦女八人が輪姦され、腹を割かれて殺害される。岔路郷では南京城から近く、交通の便も良いため、日本兵が「花姑娘探し(女性狩り)」のために頻繁に襲来、婦女二五〇余人が強姦され、多くは殺害された。石馬村だけでも女性二〇余人が凌辱され、殺害された。曹村では三度にわたって日本軍部隊が襲来し、五〇人が殺戮された。

(「南京事件」笠原十九司、岩波書店 所載)

「高淳県誌」
一月、襲来した日本軍によって高宣●王家、南○の二村が放火される(長田註:●は土へんに于、○は土へんに更)。掃蕩や「女性狩り」にきた日本軍が各県城や各村で婦女を強姦、多くは殺害した(日中戦争期間中、全県で数百名の女性が強姦された)。

(「南京事件」笠原十九司、岩波書店 所載)

「南京市崇善堂埋葬隊活動一覧表・付属文書」

 郊外の民衆で、未だ他所へ避難できず、難民区にも入れない者は、昼間は一か所に集まって助け合って身を守っているが、不幸にして日本侵略者に会うと多くが被害に遭う。背後から撃たれて倒れているものがいたが、逃げる途中で難にあったものである。横臥した形で、刀で突かれて血を流している者は、生きているうちにやられたものである。口や鼻から血を出し、顔面が蒼くなり、脚が折れているのは、大勢の者から殴られたり、蹴られたりしたものである。婦人で髪が顔にかかり、乳房が割れて胸を指され、ズボンをつけていない者、これは生前辱めを受けたものである。また、頭をもたげ、目をむき、口を開けて歯をくいしばり、手足を突っ張り、ズボンの破れている者は、乱暴されるのを拒んだものである。惨たるかな、惨たるかな。

(「南京事件」笠原十九司、岩波書店 所載)
671文責:名無しさん:2001/06/17(日) 03:57
南京事件に関する、第三国の報道
「南京大虐殺」 シカゴ・デイリー・ニューズ 一九三七年十二月十五日 A・T・スティール

<見出し>
・日本軍何千人も殺害
・”目撃者の語る地獄の四日間”
・通りに5フィートも積もる死体の山

<南京(米艦オアフ号より)十二月十五日>南京の包囲と攻略を最もふさわしい言葉で表現するならば、”地獄の四日間”ということになるだろう。
 首都攻撃が始まってから南京を離れる外国人の第一陣として、私は米艦オアフ号に乗船したところである。南京を離れるとき、我々一行が最後に目撃したものは、河岸近くの城壁を背にして三〇〇人の中国人の一群を整然と処刑している光景であった。そこにはすでに膝がうずまるほど死体が積まれていた。
 それはこの数日間の狂気の南京を象徴する情景であった。
 南京の陥落劇は、罠にはまった中国防衛軍の筆に尽くせないパニック・混乱状態と、その後に続いた日本軍の恐怖の支配、ということになる。後者では何千人もの生命が犠牲となったが、多くは罪のない市民であった。
 首都放棄以前の中国軍の行為も悲惨であったが、侵入軍の狼藉に比べたらおとなしいものだった。
 南京にいる外国人は全員無事である。

・同情の機会を失う
 中国人のとの友好を主張しているにもかかわらず、日本軍は中国民衆の同情を獲得できるまたとないチャンスを、自らの蛮行により失おうとしている。
 中国軍の士気の完全な崩壊と、それに引き続いて起こった目茶苦茶なパニックのあと、日本軍が入場してきたときにはかすかな安堵感が南京に漂った。中国防衛軍の行為ほどには悪くなり得ないだろうという気持ちがあった。が、その幻想はたちまち破れてしまった。
 罠にはまった中国兵に憐憫の情をたれるだけで、日本軍は一発も発砲せずに市内を全部制圧できたはずだ。ほとんどの兵がすでに武器を捨てており、降伏したに違いない。しかしながら、日本軍は組織的撲滅の方法を選んだ。

・5フィートも積もる死体
 まるで羊の屠殺であった。どれだけの部隊が捕まり殺害されたか、数を推計するのは難しいが、おそらく五千から二万の間であろう。
 陸上の通路は日本軍のために断たれていたので、中国軍は下関門を通って長江に殺到した。門はたちまち詰まってしまった。今日この門を通ったとき、五フィートの厚さの死体の上をやむなく車を走らせた。この死体の上を日本軍のトラックや大砲が、すでに何百となく通り過ぎていた。
 市内の通りはいたるところに市民の死体や中国軍の装備・兵服が散乱していた。渡航船を確保できなかった多くの部隊は長江に飛び込んだが、ほとんどが溺死を免れなかった。