マスコミの 「盗聴/盗撮」 は許されるの?その3

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477他人の声
それから盗聴に関しては、
ある部屋から対象者の声が聞こえる装置を施してそこから逐一聞いている場合を想像して見て下さい。其の場合に更に所謂思考までもその人の発する言葉として捉えることができるものと仮定します。そうすると相手のことに関して理解出来るのは言葉として聞こえるものが全てです。余談ですが人間は考える動物であるとも言いますが・・・。其の情況でその人のことをどのくらい理解できると思いますか。対象者自身が見られていると錯覚するぐらい相手からすればその人のことが解かる事になるかもしれませんね。その人の言葉だけでも全てわかればその人のことはある程度のところまで充分理解できる事になるとは思いませんか。もしそうなら声としての言葉以外に、言葉として口から発生される以前の声の原型のようなもの把握できればと考えませんか。そうすれば思考の盗聴という言い方をするよりも、むしろ次のように考えてみたらどうでしょう。思考というものを言葉として身体外に表出される以前の言葉の原型として考え、外部に表象された言語の形で擬似的に音としてでも抽出できれば思考という言い方でなくてもそうした特異な盗聴の事実を別の見方で理解できるのではないか。つまりその思考の表現形態である言語を音として捉える事が出来れば思考盗聴といわなくても一般の話し言葉を音として盗聴することと同じに考えることができる。そうでも考えないと言語の表出に過ぎないはずの音としての盗聴を思考というもの?までもが盗聴されていると錯覚してしまうことになるかもしれない。距離的な問題やその他の問題は単純に今ある技術の問題にすぎないと思う。私は思考というものをそれを具体的に表象した形での言語以前のものと理解し,それが外部に音として表出する過程での問題と考えている。事実から推察して思考を言語の表象形態として音の形で取り出す事が出来る筈だと理解している。その音としての声を盗聴しているのであって思考を聴くという表現は理解を間違えやすいのでは。言葉の概念の中に抽象的な意味も含まれる思考するということに代わる思考の陰の声というべき本体の音を聴いているという方が私は適切と思うが。

しかし、一体全体なんでこうした組織的不正な盗聴に特定の一般市民を専従に使かえたんだろう。