「つくる会」教科書の批判を一面に載せる朝日新聞

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281昨日の続き
1999年5月22日、台南市社会教育会館で後藤新平.新渡戸稲造の業績
を称えるシンポジウムが開催された。
(中略)
シンポジウムの冒頭、昭和大学の黄昭堂名誉教授が日本の台湾統治の
時代背景について、「帝国主義は当時の世界の潮流であり、日本だけ
が謝る必要などない」と機先を制した。
ところが、それでも日本側代表は、「日本による戦前の台湾統治で、
日本は善いこともしたが、悪いこともしたであろう。そのことについ
て謝罪したい。我々はただお詫びするしかありません」と口にしたの
である。
このシンポジウムで総合司会を務めることになった私は、「・・・
一つだけ言っておきますが、日本が台湾へ謝罪する必要はありません。
それよりも隣の大きな国と戦っている台湾を声援してください」と
日本側代表の謝罪発言をたしなめた。

「台湾人と日本精神」蔡焜燦著より
282名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/25(日) 02:11
このシンポジウム開催の原動力となった実業家、許文龍氏のスピーチ
に注目が集まった。
(中略)
「台湾の経済発展は、日本時代のインフラ整備と教育の賜物です。
当時、搾取に専念したオランダやイギリスの植民地と違い、日本の
それは良心的な植民地政策だったのです」
許文龍氏は続けた。
「戦前の日本の台湾統治に対し謝罪する必要などありません。戦後の
日本政府は、深い絆を持ちながら世界で一番の親日国家である台湾を
見捨てました。謝罪すべきはむしろ戦後の日本の外交姿勢です」と
現代日本の歪な歴史観を正したのである。
さらに許氏は、戦前の日本人に感謝の意を表すとともに、日本人が
築いた功績によって今日の台湾があることを忘れないでいただきたいと
、会場に詰めかけた台湾人に呼びかけた。

「台湾人と日本精神」蔡焜燦著より
283名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/25(日) 02:13
「昨今、日本の警察や医療機関の不祥事、さらには教育現場の荒廃
をよく耳にするが、いったいどうなっているのか。かつては台湾を
近代化に導き、そして人々から尊敬を集めた警官や医師、そして
教師達がなんたるさまか。(中略)日本、はあなた方現代日本人
だけのものではない。我々(元日本人)のものでもある」

「台湾人と日本精神」蔡焜燦著より
284名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/25(日) 02:16
李登輝政権の国策顧問だった許文龍氏の発言
「・・・・私はかつて日本人であったことに誇りをもっていますが、
逆に日本の方々は誇りをもっていないんですね。(280のような
人のことだな)どうか皆さん、過去
に対して正当な評価と自信を持って下さい」

嘉南平野の人々は、この地のために生涯を捧げた八田与一夫妻の死を悲しみ
、地元の人々によって墓が建てられ、鳥山頭ダムのほとりに八田与一の銅像
が立てられた。そして白色テロの時には地元の人によって銅像は守られ、今
でも毎年5月8日、八田与一の命日には嘉南農田水利会の人々によって慰霊祭
が行われている。また、後藤新平の「台湾近代化の父」に対して「嘉南大シュウ
の父」と呼ばれている。
285名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/25(日) 02:18
今でも年配者には、皇室に親近感を抱く人が多く、台湾人がつくった「平成の
美智子皇后お夏痩せ」という俳句まである。
また、皇后が日本のマスコミにバッシングされたとき、テレビを見て「おかわ
いそうだ。おかわいそうだ。」と会合の度に語り合った。
1935年の台湾大地震のときの、昭和天皇の下賜金を額に入れ、飾っていたもの
もいる。

「台湾人と日本精神」蔡焜燦著より

今でも桜の季節には多くの台湾人が靖国神社を訪れ、両国の英霊に祈りを捧げ、
「同期の桜を歌う会」の壇上で涙を浮かべて「台湾軍の歌」(本間雅晴中将作詞)
を放吟する。

「台湾人と日本精神」蔡焜燦著より
286名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/25(日) 02:20
戦前の台湾では、田舎の人々が警官を「大人(タイジン)」と呼び、決して流暢
とはいえない日本語で「タイジン、タイジン、私の家で美味しい大根が採れたから
持って帰っておくれ」と声をかけると、警官はありがたく頂戴した。
また、「今日は鶏を一羽しめたから、半分どうかね?」と夕食の食材を指しださ
れれば、喜んで持ち帰ったものだ。ある意味で、そうした日常のやりとりは地元
の人々との触れ合いであり、そうすることでコミュニケーションが生まれた。
ただし、日本の警官は、どんなことがあっても賄賂は受け取らなかった。

「台湾人と日本精神」蔡焜燦著より

李登輝総統も司馬先生との対談の中で、日本統治時代に純粋な教育を受けることが
出来たと、日本教育を称賛しており、日本の教育が台湾の識字率を高めたばかりか、
今日の台湾発展の基礎を築いたことは衆目の一致するところである。

「台湾人と日本精神」蔡焜燦著より
287名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/25(日) 02:22
戦前の日本の教育水準は非常に高く、また教師達が皆教育に情熱を燃やしていた上に
、なによりも愛情をもって子供たちに接していた。
私の後輩で、優秀だが家が貧しくて中等学校に入ることが出来ない生徒がいた。
すると先生がその生徒の良心を訪ね、「私が学校へ行かせるから」と、五年間の学
費を先生が肩代りして卒業させたということもあった。
そして戦後、その生徒が日本に暮らす恩師を訪ね、涙の対面を果たした経緯は、当時
の日本の新聞にも取り上げられている。
しかし、そんな美談は当時どこにでもあり、このような愛情を込めた教育は、明治、
大正、昭和の各時代を通して行われていたのである。
(中略)
そんな当時の師弟関係は今も延々と続けられている。
私の母校である彰化商業学校の校長、大場則雄先生の白寿のお祝いに台湾から多くの
教え子が駆け付けた。
すでに視力のおちた恩師に大きな文字で「校長がんばれ」と色紙に書いて手渡し、
先生がたいそう喜んでくれたことが、つい三年前のこと。

「台湾人と日本精神」蔡焜燦著より
288名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/25(日) 02:23
明石元二郎総督の陵墓発掘に、嫌がらせに立ち会った新党の台北市議員
、楊鎮雄は、祝詞を唱えた黄守礼を「漢奸、日本人走狗」とののしり、
「なぜ日本人が台湾人を殺したことを言わないで、明石の貢献だけを
言うのか」と言ったので、黄は「明石は台湾人を殺していない」と答える
と、「漢奸、走狗、日本人は台湾人を殺した」と叫んで止めなかった。

「韓国人の「反日」台湾人の「親日」/黄文雄」より

日本人教師と台湾人生との間には強い師弟関係があり、戦後も教え子達が日本の恩師
を訪ねたり、逆に日本から恩師がやってくれば、教え子が台湾中から集まったり、また
銘々が自分の郷里に招こうと恩師の奪い合いが生じたりする。
ところが戦後、大陸からやってきた中国人教師と台湾人生徒にはそんな関係は一切ない。

「台湾人と日本精神」蔡焜燦著より
289名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/25(日) 02:25
昭和十年の台湾大震災では、様々な美談が生まれた。
当時公学校三年生の男子生徒が倒壊した建物の下敷になった。彼は虫の息になりながら
も、駆け付けてきた先生を見上げて国歌「君が代」を歌い、しして静かに息を引き取った
のである。
この少年はその後、「君が代少年」と呼ばれ、学校には少年の銅像が建てられた。
これは実話であって、フィクションではない。
もし、我々台湾人が、日本教育を強制されたと捉えていたならば、どうして今わの際に
国歌「君が代」など歌えようか。
現代の日本人は、日本がかつて植民地で皇民化教育を行っていたことを非難するが、
それは「内地でやっていた教育を、同じ日本領土である台湾でやっていただけ」だと
私は納得している。

「台湾人と日本精神」蔡焜燦著より
290名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/25(日) 02:28
タイヤル族の村には「台湾高砂義勇隊英魂碑」がある。(中略)記念碑の参道
には「高砂挺身報国隊 台湾総督 海軍大将 長谷川清」と書かれた無数の
日章旗が翩翻とし、この地を訪れる日本人を無条件に感動させる。

「台湾人と日本精神」蔡焜燦著より

繰り返すが、内地で行われていた教育と同じ教育が日本の最南端の台湾で行われていた
のであって、(強制)などという卑しい言葉は不適切であるばかりか、我々台湾人は
そうした歴史の歪曲に不快感を覚えることも知っておいていただきたい。

「台湾人と日本精神」蔡焜燦著より
291名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/25(日) 02:29
世に言う「2.28事件」が勃発した。(中略)ラジオからは、「元**飛行隊の者は**に
結集せよ!」「元海南島の**部隊の出身者は*時に、台北市の**へすみやかに集合せよ!」
と日本語で呼集がかかり、また民衆を鼓舞するために「軍艦マーチ」「君が代行進曲」が流さ
れたこともあった。
さらに民衆の間には、「基降に日本からの援軍が上陸したらしいぞ!」という噂まで流布され
たという。

「台湾人と日本精神」蔡焜燦著より

常に日本語のラジオ番組を聴く父親は、中国製のラジオが故障すると、日本製じゃないから
壊れるんだと愚痴り、テレビが普及した後も子供たちとスポーツ番組を観ながら中国との
試合で日本チームを応援する。
この徹底した日本びいきの父親の夢は、日本に行って皇居と富士山を見ることだった。(中略)
台湾には、そんな日本語世代の人々が集う「友愛グループ」という文化サークルがある。
1992年10月、日本の文化人と親交を深める陳絢暉氏とその弟、陳燦暉氏が発起人となって、
台湾にかつての日本語を残そうと「友愛日本語クラブ」を旗揚げした。

「台湾人と日本精神」蔡焜燦著より
292名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/25(日) 02:32
この「友愛グループ」には、台湾の(日本語族)の象徴ともいう
べき呉建堂氏(故人)も参加していた。
先の陳絢暉氏と同じ大正十五年生まれの呉建堂氏は、台湾人とし
て唯一、菊池寛賞を受賞した日本語の達人であった。
呉氏は、「台北歌壇」を主催し、永く台湾の地に日本の「短歌」
を残そうと尽力した偉人であった。
その短歌に対する熱い思いを表わした歌がある。
「万葉の流れ この地に 留めむと 生命のかぎり 短歌詠みゆ
かむ」「孤蓬万里」という雅号を持つ呉氏の作品は実に一万首を
超え、その編著作「台湾万葉集」(全三巻 多くの台湾人が詠ん
だ歌が収録されている)は日本でも集英社から刊行され、高い評
価を得ている。
(中略)
293名無しさん@神軍:2001/02/25(日) 02:32
>241
>戦争を、美化しちゃいかん。 ゆきゆきて、神軍ビデオ借りて、みてごらん。

なかなかいいこと言うな君、ゆきゆきて神軍はここにいるみなさんに是非お薦め
レンタルビデオ屋にたぶんある(無い所もあるが)ので見ましょう
極左のじじいが天皇は犯罪者とかいいながらポルノチラシをまいて捕まったのを自慢したり
中曽根康弘を殺す!とか書いた右翼宣伝車のような物に乗りながら、旧日本軍で食料が無くなったために
しかたなく仲間を食べた?かと思われる、そのことを掘り起こされるのが嫌でしかたないおじいさんを
捕まえては無理やり尋問し、話さないときには『殴って』(実話、ノンフィクション、本当に殴っている)
最後はそのときの責任者の息子を銃で撃って捕まる(本人ではなく息子、天誅とかほざく)お話です

これを薦めれるとはすごすぎるなあんたは、支援者か?極左かい?ちょっと信じられんよ、

294名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/25(日) 02:34
医学博士であり、また剣道八段の腕前を持つ呉建堂氏は、東京に
おける国際親善剣道大会(昭和四十二年)で、当時皇太子妃であ
られた皇后陛下と短くも言葉を交わされ、後に「台湾万葉集」を
献上した。
御返礼として宮内庁の藤森長官は、現皇后陛下のご指示にもとづ
いて「折々のうた」という新聞記事を呉建堂氏に送られたのであった。
そして、1996年1月12日、皇居における宮中歌会始に呉建堂氏が招
かれたのである。
外国人が歌会始に招待されること自体たいへんなことであり、その
ニュースを耳に
した台湾の日本語族の人々は驚喜した。「宮中の 歌会始に 招か
れて 日本皇室の 重さを思ふ」
「国思ひ 背の君思ふ 皇后の 御歌に深く 心打たるる」
1998年12月、この偉大な歌人・呉建堂氏も帰らぬ人となった。

「台湾人と日本精神」蔡焜燦著より
295名無しさん@神軍:2001/02/25(日) 02:35
ちなみに私は反吐が出そうになった、左翼なるものがいかにどうしようもないかよく分かる
おじいさんを殴るシーンに俺がいたら絶対こいつを殴り殺してると思ったよ。
296ななしさん:2001/02/25(日) 02:35
くじ引きで負けた奴が食料になるという話。
たしか、ポーの小説にあった。
297名無しさん@神軍:2001/02/25(日) 02:36
あ、せっかくいい事書いてるところに邪魔になってしまった・・・ごめんなさい
298名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/25(日) 02:37
引き揚げ者の中には、海南島から日本兵と共に引き揚げて
きた二十名ほどの台湾人慰安婦の姿もあった。
彼女達は我々と同じキャンプに収容されて台湾への帰国を
待っていた。
彼女らは口々に、「海南島は儲かるし、それよりも兵隊さ
んが喜んでくれたんです」と語っていた。
そうした生の声には、日本で騒がれるような強制連行の
(悲劇)などは存在しなかったことを、私のこの耳がしっ
かり聞いている。

「台湾人と日本精神」蔡焜燦著より

(略)1999年、8月号の「正論」に掲載された許文龍氏
(実業家であり、李登輝総統の国策顧問)の記事も、まさ
しくそんな氏の客観的な歴史観と実行力の賜物だった
と言っていいだろう。
日本でくすぶり続ける慰安婦の「強制連行」なる問題に
首を傾げた許氏は、戦時中に慰安婦だった女性を集めて
その事実を明らかにしたのである。
もちろん結果は、日本の一部のマスコミや学識者がヒステ
リックに訴えるような「強制連行」なる事実は存在しなか
った。

「台湾人と日本精神」蔡焜燦著より
299名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/25(日) 02:39
後藤新平は、あくまで「生物学の原理」に従って台湾統治を
行うべきであると主張しており、「ヒラメの目を鯛の目に付け
替えることはできない」という有名な喩えが残されている。
こうしたことは、全島の旧習調査からアヘン吸飲習慣を把握
した上で、アヘン患者を徐々に減らしていった手法にもあら
われている。
アヘンを専売制にし、中毒、常習者に限って販売するが、新た
に吸飲するものは厳罰に処せられた。
これにはアヘン患者を自然に減少させる狙いがあった。
こうして当初全島人の6パーセントにものぼった、中毒、常習
者は1941年までに0.1パーセントにまで激減していったのだ。
悪習といえども他民族の習慣を尊重しながら、無理なく時間を
かけて撤廃していったその手腕は実に見事であった。

「台湾人と日本精神」蔡焜燦著より
300名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/25(日) 02:41
今日でも台湾の日本語世代の年配者はたいてい、「我是受日本
教育的」(私は日本教育を受けた人間)としての誇りをもっている。

「韓国人の「反日」台湾人の「親日」/黄文雄」より

用地売却に応じない反日地主を捕らえて公開銃殺したと、朝鮮
近代史にはよく書かれている。
しかし、どうにも信じられないのは、総督府がじつに十万人単
位の義兵やら民衆を虐殺したというものだ。
なぜ日本人は、韓国人ばかりを虐殺したのか、どう考えても理
由がわからない。

「歪められた朝鮮総督府」黄文雄
301名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/25(日) 02:44
駐在警官と住民との親密な交流が高砂族の人々の心を開き、台湾
総督府の統治政策の基盤となっていたことを忘れてはならない。
「愛国乙女サヨン」の物語は、そんな駐在警官と高砂族の少女の
美談として、今も語り継がれている(中略)。
田北警手は真心で蕃社の人々に接し、そして愛情をもって子供たち
を教育したことで、地元の人々から尊敬を集め慕われた。(中略)
応召の日(九月二十七日)田北警手は台風が吹き荒れる山道を下山
しなければならなかったが、当時十七歳だったサヨンは田北警手と
の別れを惜しみ、彼の荷物運搬を申し出た。(中略)
そして丸木橋を渡ろうとしたその時、鉄砲水がサヨンを襲ったの
である。
激流に飲み込まれたサヨンは、一行に「さようなら」と手を振りな
がら流されていった。(中略)後に、このことが第十五代台湾総
督府、海軍大将、長谷川清の耳
に入り、総督の指示で、「愛国乙女サヨンの鐘」と刻印された釣り
鐘が造られ、さらにサヨンの遭難場所には「愛国乙女サヨン遭難
之地」の石碑が建立された。
当時、忠誠心あふれる愛国乙女サヨンの物語は、映画(李香蘭主演)
にもなり、「サヨンの鐘」(西条八十作詞、古賀政男作曲)という
歌になって、レコードで売り出され、
台湾では今でも「沙蓉鐘声」として歌い継がれている。

「台湾人と日本精神」蔡焜燦著より