旧日本軍の「濾溝橋事件」の方がえげつない

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1文責:名無しさん
近衛内閣が登場してから1ヶ月後の1937年(昭和12年)7月7日、北平(北京)郊外の濾溝橋で日中両軍の小さな衝突があった。
これがその後日中全面戦争に発展する発端の「濾溝橋」事件である。
義和団事件をきっかけに日本軍は
1901年以来北平に駐屯軍を置いていた。
7月7日の衝突は歩兵第1連隊第3大隊の
第8中隊(清水節朗大尉以下135名)が

濾溝橋近くで夜間演習を行っているときに起きた。
濾溝橋の近くには宛平県城があり中国軍が駐屯していた。
この両軍が接近したなかで数発の銃声が響く。
点呼をとると日本兵1名がいなかった。
このため第3第隊長一木清直少佐は部隊を出動させた。
しかし、この不明の日本兵は行軍中に道に迷い、
のち部隊に帰還している。
このため日本軍は中国軍の不法射撃を問題にして陳謝を要求した。
歩兵第1連隊長の牟田口廉也大佐は一木第3第隊長に攻撃命令を出した。
第3大隊は宛平県城近くの龍王廟に駐屯する中国軍の攻撃にかかった。
8日と9日の戦闘で12人の戦死者が出た。これが日中戦争の発端である。
たしかに柳条湖事件のような大がかりな謀略で発生したものではなかった。
この不明兵士の問題が解決した後に戦闘が発生した理由は、
牟田口廉也連隊長や一木大隊長が、軍の面目・威信にこだわり、
不法射撃の中国軍に対して一撃をかませてやろうとした
日本軍指揮官の思い上がりと浅はかさの産物であった。
実際、牟田口廉也はその後1944年に司令官として
無謀なインパール作戦を強行して失敗し、ビルマからインド東北部で
大多数の将兵を死なせている。
一木清直もガダルカナル戦で1大隊で同島奪回のために
アメリカ軍1師団と闘って全滅し、自決した猪突猛進型の将校であった。
●この事件での日本軍のえげつなさは以下の通りである。
現地での停戦協定が成立して中国軍の謝罪と宛平県城からの
中国軍の撤退、
および日本軍の濾溝橋からの撤退が決定していたにも関わらず、
近衛内閣は派兵を承認し、濾溝橋事件を中国の
計画的武力抗日であるとした。
これは中国民族への侮蔑意識があり、
中国ナショナリズムへの軽視があった。
しかし、中国は西安事件を境に抗日民族統一戦線を形成しつつあり、
日本軍はこれ以後泥沼の日中戦争へと引き込まれていった。