1 :
準備委員会:
とりあえず、朝日新聞、テレビ朝日、TBSを対象にしています。
どのようにやれば効果的か。
一般市民のみなさんにも共感を受けるような、抗議をしたいと思っています。
皆様のお知恵をお貸しください。
2 :
準備委員会:2001/07/25(水) 22:45
3 :
文責:名無しさん:2001/07/25(水) 22:45
サヨクみたいに、フォーム作って、ボタン一つで自動的に抗議先にメールおくれるようにしましょう。
4 :
がんばれウヨ!:2001/07/25(水) 22:50
君たちがホントに「市民の共感を得ている」
とおもっているなら、やってみたら??
でも、いつもの、五分刈りにクロメガネじゃ
逆効果だからね!
5 :
呉善花(拓殖大学日本文化研究所客員教授):2001/07/25(水) 22:57
母から聞いた「よき日本」
呉 戦後、韓国の李承晩政権は、反日、反共ということを国是として、それによって国民をまとめようという政策をとったわけですね。そこで行われたのが、いわゆる反日教育、反共教育です。私は1956年の生まれですから、1番強烈にその影響を受けた世代だと言ってもいいと思います。
反日教育について言いますと、日本人は野蛮で侵略的民族で、韓国人に対して冷酷無比な仕打ちをしてきたということが、学校で徹底して教えられたわけです。小学生のころ、反日をテーマにしたポスターを描いたことがあるのですが、その時、私は大きな紙に顔を1つ描いて、目はつぶしてしまって、頭に角がとがっている顔を描いた。これが日本人、日本の軍人のイメージだというわけです。それで、すごく誉められたことがあるんです。
しかし、その一方、学校に入る前に、私が子どものころに両親から日本のことを聞かされていたのです。今になって思えば、私にとってものすごく大切なことだったと思うんですが、その日本のイメージというのは本当に「よき日本」なんですね。
特に母は、よく日本のことを語ってくれました。日本には泥棒がいないとか、日本のミカンは美味しいとか-・・。道に迷っていたら、お店で仕事をしていた人が手を休めて遠くまで案内してくれるぐらい日本人は親切なんだとか。そういう話をいつもいつも聞かされていたんです。
母は、14、5歳のころだと思うのですが、故郷の韓国・済州島から大阪でプラスチック製造工場を経営していた伯父たちのところに手伝いに来ていたようです。見合いの話があって1度済州島に戻るのですが、父と結婚してから今度は鹿児島で箸の工場を経営していた父方の兄弟たちを頼って、父と2人で日本に渡ったそうです。そこで私の1番上の姉も生まれています。
その鹿児島での話にしても、母から聞いたのは日本人が非常に親切だったという話なのです。家主の日本人が、「畑もタダで貸してくれて、何かにつけて食べ物や果物をくれたのよ」と。父と母が鹿児島に行って間もなく戦争がはじまるのですが、その家のご主人が叔父や父たちの家族の人数まで計算して大きな防空壕を掘ってくれ、飛行機が飛んで来るたびに、その方は自分の子どもと叔父の子どもたちを先に防空壕に入れて、自分が1番最後に入った。それくらい親切にしてくれた。だから、戦争が終わって韓国に引き揚げたときには泣きながら別れた。小さい頃は、こういう話をいつも聞かされていたわけです。
-ところが、学校に入ると、日本人はひどい人たちだと反日教育を受けた。
呉 母の話と矛盾するんですね。それで迷いましたが、戦後の韓国では高い教育を受けた人ほど反日意識が高いというのが常識になっているんです。ですから、自分もその1人だと思いたい。それで、両親は教養のない人たちだから、本当のことを知らないのだ。だから、あんなに日本のことを誉めていたんだ、と思うようになっていったのです。 両親だけでなく、私の周りには戦前に日本に行ったことのある人が多かったのですが、誰からも日本の悪口を聞いた憶えがないんです。日本は良かったという話ばかり。やはり、あの人たちも学問がなくて、無知な人なんだ。なんと恥ずかしいことだろうと(笑い)-・・:。そんなふうにして、より強い反日感情を持つようになったわけです。
6 :
呉善花(拓殖大学日本文化研究所客員教授):2001/07/25(水) 22:57
『反日』史観への疑問
-そういう反日感情を持ちながら日本に来られたわけですね。
呉 ええ。けれども、実際に日本人に接してみますと、親切ですし、やさしいし、人がいい。これが学校で教えられた、あの悪魔のような日本人かと。それですごく迷いました。 とは言っても、最初は日本と韓国の習慣の違い、価値観の違いにぶつかりました。韓国では一般的に良いとされる行為でも、日本ではよくないということが沢山ありますから。それで身近なところでいろいろとトラブルが起こる。そんな時には、日本人がやさしいのは表面だけで「やはり日本人はひどい人たちなんだ」と思ったこともありました。
でも、いろいろ迷った末に、韓国的な価値観は一旦カッコに入れて、できるだけ先入観なしに日本人の考え方を見ていくことにしたんです。そうしたら、これは日本人がひどいのではなくて、価値観の違いなんだということが分かって、日本理解が進んでいったように思います。
しかし、問題は朝鮮統治にまつわる歴史です。これは最後まで残りました。日本人は韓国人である私のことを意識して、「日本は韓国の方々にほんとに悪いことをしましたね」という意味のことを言うんです。最 初は、それを聞いてすごく気分がよかったんですよ。けれども、そのうち日本人の謝罪が非常にうすっぺら に聞こえるようになったんです。なぜそんなに簡単に謝れるのかと。
-つまり、本心から謝罪しているのではないと。
呉 そういうことです。単に韓国人である私に対して気に障ることを言わないというだけの話で、本気で韓国のことを考えているのではないと。 ただ、私の場合は、幸いなことに韓国と関わりのあるビジネスマンやジャーナリストたちの勉強会に出会って、それが非常に勉強になったのです。彼らは私が韓国人だからといって遠慮することなどまったくなかったし、しかも理路整然と冷静に議論をするんです。例えば、韓国併合について、彼らは併合を正当化するわけではないけれども、ロシアの南下など当時の国際情勢から言ってやむを得ない流れの中での選択だったのではないかと。そういう話を聞いて、最初はものすごく腹を立てていたのですが、だんだん私はただ感情的に反発しているだけではないかと気付きはじめたのです。
韓国では日韓併合に対して日本と韓国の関係でしか見ていないのです。しかも、支配したものと支配されたもの、加害者と被害者という、いわば道徳的な善悪の枠組みでしか日本の統治時代を語らない。それで日本人は韓国に対してひどいことをしたというわけです。ところが、その勉強会の日本人たちは、世界全体を見て、当時のロシアはこうだったし、中国はこうだった。それに対して日本はこう対応したという話をする。つまり、日韓併合も世界史的な側面から議論していたわけです。
これは私にとってものすごいショックで、それで勉強を始めたんです。李朝末期の朝鮮は国自体が衰弱していてどうすることもできないほどひどい状態だったこと、それと同時に日本の方は朝鮮半島がロシアにとられたら日本の安全も脅かされると切実に考えていたこと、おそらく日本が併合しなければロシアが朝鮮を植民地にしていただろうということ等々が分かってきました。それで、日本が悪いことをしたということだ けに振り回されていては、本当の歴史は見えてこないと考えるようになり、そのことを自分なりに本にもま とめました(『「日帝」だけでは歴史は語れない』)三交社、『韓国併合への道』文春新書)。
それと同時に、いわゆる日帝時代に、本当に日本人は韓国で言われているような悪逆非道なことをしたのか、という疑問も生じてきたのです。子どものころに母から聞かされていたことの記憶も甦ってきて、そのことを調べてみようと。
実際、日本には朝鮮で生まれたとか、当時朝鮮で生活していたという方がおられることも知っていましたので、そういう人を探して、日本統治時代の日本人と韓国人とはどういう関係にあったのかを聞くという、ちょっとしたインタビューを何年か前からはじめたというわけです。
7 :
呉善花(拓殖大学日本文化研究所客員教授):2001/07/25(水) 22:58
こんなにあった日韓の「よき関係」
―実際、インタビューをなってみて、いかがでしたか。
呉 日本には当時総督府の幹部だった方で健在の方がおられて、すごく助かりました。そうした方からかつての韓国人の同級生を紹介されて韓国へ訪ねて行ったのですが、韓国の方が平均寿命が短いせいか、同年代の方は既になくなったり、起きあがれないという方が多くて、話を聞くのにかなり苦労しましたが・・・。
それはともかく、日本の方は皆さん当時のことを本当に鮮明に覚えていらっしゃるんですね。お陰で本にはインタビューのすべてを載せたわけではないのですが、それでも、当時の日本人の典型的な体験が生の形で見えてきたような感じがします。また、総督府の幹部や学校の先生と、それぞれの立場は違っているのですが、言いたいことはみんな共通しているな、ということも感じました。
どういうことかと言いますと、自分たちの周囲では、特にひどい差別があったわけではないし、周囲の韓国人とは「よき関係」にあったということなんです。戦後になって、「日本人が韓国人に対してひどいことをしたと言われるけれども、自分たちこそがその時代に生きていた証人であり、その私たちの話を聞かないで、何が歴史なんですか、と嘆かれるわけです。
-そのなかで、どういう話が印象に残っておられますか。
呉 日本に引き揚げるときに、みんな泣きながら朝鮮人の知りあいと別れているのです。先ほど、終戦の時に、母が鹿児島でお世話になった日本の方と泣いて別れを惜しんだという話をしましたが、立場は逆ですが、この母の話とまったく一致する話を聞いて涙が出ました。
ある方は、中国との国境にある新義州(今の北朝鮮)で終戦を迎えたのですが、そこで、日本人の収容所に入っていたら、元従業員の朝鮮人たちが探し出してくれて、あまりにかわいそうだからということで住む場所を世話してくれた。そこは別の朝鮮人たちが住んでいて、その方はしばらくの間一緒に生活したのだそうです。その朝鮮人たちも親切にしてくれて、よく食べ物をもってきてくれ、送還船に乗るときは、その人たちが泣きながら見送ってくれたというのです。 また、同じ新義州に住んでいた別の方は、終戦になって家を接収されただけではなく、机も椅子も食器も何一つ持ち出せなかった。それで日本人の収容所にいたのですが、知り合いの朝鮮人が自分の家の2階に隠してくれたというんです。そこで薪割りや封筒を作るような仕事をしていたそうですが、以前使用人だった人が夜になるとよくお米やキムチを持ってきてくれたというのです。
北朝鮮はソ連軍の支配地域で、日本人を住まわせることは禁止されていたし、日本人をかくまっていることが分かれば、それこそ殺されてしまう危険性すらあった。にもかかわらず、とても親切にしてくれたというのです。
この他にも、いざ日本に引き揚げるというときに、ソウルから釜山まで一緒に行ってあげると言われた方もおられました。あの時は電車も何もないわけで、釜山まで一緒に行くというのは、荷物を背負って歩くということです。
こういう体験を踏まえて、彼らはほぼ共通してこう言うんです。とにかく負けた途端に、警察も何もなくなって、日本人は権力がなくなった。一般的に裕福だった日本人の家なら略奪しても誰も文句は言わないという状態だった。けれども、そのようなことは体験しなかったし、そういう噂も聞いていない。これは一体どういうことなのかと。
あの頃はまだ食べ物も少なくて苦しい時代でしたし、韓国・朝鮮人も良心的な人たちばかりではありませんから、もし「日帝36年」で日本人が朝鮮の人たちに対して本当にひどいことをしていたならば、やはり日本人のものをとるという事件がいくつも起こっていたと思います。しかし、そうではなかったのです。
8 :
呉善花(拓殖大学日本文化研究所客員教授):2001/07/25(水) 22:58
日韓双方の聞き取りから見えてきたもの
―韓国が常に批判する、いわゆる「従軍慰安婦」や神社参拝、創氏改名についても聞いておられますね。
呉 これも、インタビューした日本人たちは、自分たちの体験したことと戦後言われていることとは違うというわけです。例えは、女性をむりやり連れて行って「従軍慰安婦」にしたという話などはみんな反発するんです。そんな話は当時聞いたことがないと。
特に、総督府で警察の幹部だった方は、当時はものすごく警察がしっかりしていたので、どこかで何かが起きたときには全部耳に入ってくるのに、むりやり連行されたなどという話はまったくなかった。隣の娘を強制的に連れて行ったというなら、朝鮮の人はそれをただ黙って見ていたのか。そんなときは、必ず力ずくで抵抗するだろうし、そんな事件が起こったら必ず報告が入ってくるはずなのに、まったく聞いたことがない。そんな噂すら聞かなかった。こう言われるわけです。
神社参拝にしても、強制的にさせられたと韓国で言うわけですね。確かに、韓国人に聞きますと、いかざるを得なかったと言います。けれども、日本人に聞いてみると、日本人の学生がみんな行くので、韓国人の学生も一緒に行ったけれども、行きたくない人を強制的に連れて行ったわけではないと言うのです。学校の先生をされていた日本人は、教え子にクリスチャンが1人いて、神社参拝はできませんというので、みんなが神社参拝している間、外で待たせていたと語っておられます。
創氏改名の問題も、したい人だけがしたわけで、決して強制ではないと日本では言うのですが、韓国側はそうではあっても、例えば創氏改名しないと仕事につけないとか、そうせざるを得ない状況があった。だから強制だと言うわけです。インタビューではこのことも聞いたのですが、学校でも李さんは李さんとそのまま呼んでいた。名前を変えた人もいたけれども、自分の親から絶対に変えるなと言われていたので自分は名前を変えないという人もいた。こういう話なのです。
こうしたことから分かることは、神社参拝にしても創氏改名にしても、そのぐらい融通性があったということです。
それにしても、韓国では神社参拝や創氏改名を「日帝36年」の象徴のように言いますが、冷静に考えれば日本統治のほんの1コマなんですね。とても韓国人の生活を根本から変える力を持っていたということはあり得ない。 実際、民族行事などは日本統治時代もそのまま行われているんです。先祖の祭祀などはみんな朝鮮式で行っていたわけで、民族的なものが強制的に禁じられていたわけではないのです。
9 :
呉善花(拓殖大学日本文化研究所客員教授):2001/07/25(水) 22:58
戦後の枠組みでは見えない「よき関係」
―結局、戦後の歴史認識の枠組みではそういう実際のことは見えてこないということですね。
呉 ええ。韓国・朝鮮人を「強制連行」したという問題にしても同じです。 戦争の最後の頃に、韓国・朝鮮人が日本の炭坑に連れて行かれたり、軍需工場で働かされて苦しんだと言われるのが「強制連行」問題ですが、しかし、一方で、日本人はどうだったかというと、日本人は徴兵されて、若者はみんな戦争に行った。戦場に行くということは死ぬことを覚悟で行くわけですね。親もそのことを分かっていた。
韓国・朝鮮人が徴兵になったのは戦争末期の一時期だけで、ほとんどは志願でしたから、インタビューした日本人のなかには、戦争に行くより工場で働かされた方がどれだけましだったか、と言われた方もおられたほどです。つまり、逆差別ではないかと思えるような問題もそこにはあったのです。
韓国・朝鮮人の方だけを見ると、日本に連れてこられてかわいそうなことをしたという言い方も出てくると思うんですが、では、そのとき軍隊で戦場に行った日本人はどうなるのか。片方だけを見ると、確かにひどいように見えてしまうけれども、その両方を考えなければならないと思うんです。
ちなみに、韓国・朝鮮人の場合は、軍隊に入るのは昭和18年まで志願制だったのですが、これがものすごい競争率なんですね。これには驚きました。昭和17年に62・4倍、昭和18年でも48・2倍。 韓国の方は、志願だと言っても志願せざるをえないような状況になっていたという言い方をするんですが、しかし、「強制だったけれども軍隊に入ることは難しかった」という言い方が成り立つかどうか疑問です。給料の魅力とか色々と事情もあったでしょうが、それでも日本と一緒になって戦おうという気持ちが働いていたのだと考えざるを得ないのではないでしょうか。
こうした事実を抜きにして、ただただ政治史とか、植民地支配をしたとか植民地支配をされたとかという制度だけから歴史を見て、日本はひどいことをしたということになっている。ここに日韓の歴史問題の重要なポイントがあると思いますね。
日本の非道は戦後に知った?
-ところで、韓国の方にもインタビューされていますが、日本人の証言と較べてニュアンスが違っていますね。
呉 日本人の場合は、非常に具体的な自分の体験を話してくれたのですが、韓国人の場合、特に男性は自分の体験を話すというより天下を論じるという感じなんです。私が当時の具体的な生活のことをお聞きすると、一旦は答えてくれるんですが、いつの間にか天下の話に戻ってしまう。それでうまく話がかみ合わない・・・。
ですから、その方の周囲で何があったのかという実際の体験と歴史認識との間に差が生じてしまうんです。例えば、日本統治時代は、自分の周囲にいた日本人は非常にいい人だったと言われる。自分の体験ではそんなに悪いことはなかったと。けれども、日本人は韓国に対してひどいことをしたということも皆さんおっしゃるんです。
そこで、「では、どんなひどいことがあったのですか」とたずねると、日本人は韓国人の姓を奪ったとか、従軍慰安婦として連れていったとか、いろんなことをあげられるのですが、「では、従軍慰安婦として強制的に連れていかれたところを見たり、誰かから聞いたりしたことがありますか」と聞きますと、「いや、私の周りではそんなことはなかった」と。 さらに、「当時、そういう噂を耳にされたことがありますか」と迫りますと、「いや、当時はそんなことは知らなかった。けれども、戦後になって調べてみたら日本人はひどいことをしていたのだよ」。
こういうことで、私が「あなたの周囲がどうだったのか、ということが大事なんです」と、いくら言っても話がかみ合わない。
―皆さん戦後になってから知ったと言われるわけですね。
呉 そうなんです。戦前・戦中には見たことも聞いたこともない。しかし、後で分かったのだと。後で分かったというのは何かというと、本を読んで知ったということです。
韓国では、制度を論じたりするのが歴史を含めた学問であって、身の回りの体験などは学問の対象にならないというのが、知識人の普通の認識ではないでしょうか。だから、日本人のことはひどいことをしたと言いながら、抽象的な話しかしないし、具体的な場面ではそんなことはなかったという乖離が起こってくるのだと思います。
10 :
呉善花(拓殖大学日本文化研究所客員教授):2001/07/25(水) 22:59
「反日」と「謝罪」が歪めた日韓関係
呉 だいたい韓国人は日本のことが好きなんです。しかし、いざとなったら「日帝36年はこうだった」と反日を持ち出す。これは一種のイデオロギーとでも言うべきものです。 個人的に話をすると、日本人は親切にしてくれたとか、いい人だという話をする。また日本統治時代にこんないいことがあったと評価する人も多いんです。これは本当の話です。しかし、そのことを勇気を持って公の場で言う人はいないし、活字にもしない。
確かに、韓国ではこの前の経済危機以来、日本に対するイメージはずいぶん変わっています。
例えば、以前なら日本の企業が韓国でちょっとしたトラブルを起こすと、それが個人的なことであっても、すぐに「日帝36年」と結びつけられたのですが、最近はそんなことはなくなっています。経済的にそんなことを言っていられないという状況があり、ビジネスマンにしても日本人に冷たくして会社に何の利益もないということは、みんな知っているからです。
しかし、今言いましたように、「日本統治時代に私の周囲はこうだった」という実際の話をする人はまだほとんどいないのです。つまり、歴史問題の根っこにある問題は解決されてはいないのです。
―韓国から何か歴史問題を持ち出されると、すぐ謝ってしまう日本の風潮に対しても同じことが言えますね。
呉 歴史の真実が見えていないという点では、よく似ていると思います。その場しのぎで「日本は悪いことをしました」というのでは、歴史は見えてこないし、日韓関係はほんとうにいい関係にはならないと思います。
―実際には「よき関係」があった。にもかかわらず、戦後はそのことが日韓双方で語られず、韓国が「反日」を叫べば日本が「謝罪」で応じるという実のない歴史認識が両方で横行しているということですね。
呉 その点は重要だと思います。「実際」抜きの歴史だけが大きくなってしまったということです。
でも、そういう歴史を作ったのは、韓国でも圧倒的多数の韓国人ではないんです。李承晩にしても日本統治時代は海外で反日運動をしていた人です。そういう少数の人たちがつくりあげた歴史です。
その点は日本も同じではないでしょうか。戦争の際、圧倒的多数の人たちは自ら戦争に行って命をかけた。仕方なく戦争に行ったという人もいるでしょうが、大多数はこの国を何とかしなければと思って戦争に行ったのだと思います。
そこのところに歴史の真実があるはずなのに、戦後になって少数の人たちが作り上げた歴史が戦争に負けたことや戦争は悪だという考え方と結びついて、そんな当時の気持ちなど忘れてしまっている。それと同じように、朝鮮で生活していた日本人が体験したところにこそ、歴史の真実があるはずなのに、それは顧みられない。
そういう歴史の真実というか、本質的なものをみつめていく作業をしていかないと、歴史問題を巡る日韓の和解は非常に難しいと思います。
http://www.yasukuni.or.jp/new/osonfa/sinjitu.htm
11 :
文責:名無しさん:2001/07/25(水) 23:24
12 :
文責:名無しさん:2001/07/25(水) 23:24
>厨房へ
不走者教科書「1946年2月にはゼネストが計画されたが、
GHQによって禁止された。」
だって。
2・1ストは1947年だろ?
そんなことも知らんのか?
13 :
:2001/07/25(水) 23:26
呉善花はよく本国で売国奴扱いされんもんだ……
14 :
:2001/07/25(水) 23:34
15 :
文責:名無しさん:2001/07/25(水) 23:35
ウヨへ
まともに反論してくれよ!
つまんねーよ!
16 :
:2001/07/25(水) 23:38
17 :
文責:名無しさん:2001/07/25(水) 23:39
18 :
文責:名無しさん:2001/07/25(水) 23:42
右翼敗北♪「
19 :
準備委員会:
>>12 そういう指摘を報道するマスコミであれば、抗議などしません。
そのような重要な客観的誤りを指摘せずに、主観的な思想観の違いで批判を繰り広げているマスコミの姿勢を問うているのです。