「近きより」
執拗に繰り返した権力者批判 東条氏は硫黄島で働くべき
戦前、戦中の新聞、雑誌の中で、最も強烈に権力批判をし続けたのは雑誌「近きより」は
戦後、「三鷹事件」や「丸正事件」など数々の事件の弁護士として活躍した正木ひろしが昭和
12年に創刊したものだ。雑誌といっても書店売りではなく、購読者に通信販売する形だっ
た。正木自身が執筆し、発行部数は最大で1万部近くに達し、何度か発禁処分を受けたも
のの、太平洋戦争中も廃刊になることなく生き延びた。
大新聞に比べ、発行数が格段に少ないとはいえ、創刊以来一貫して続いた権力批判の姿
勢は、東条首相をも名指しで非難するほど強烈なものだった。
例えば、昭和19年2月号の「責任を知れ」と題した記事では、国会における東条の答弁を
取り上げて、理路整然と東条の無能ぶりを指摘している。東条が退陣した後の昭和20年1
月号には、特攻隊攻撃によって日本が支えられていることを痛ましいとしながら、「東条
氏なども、せめて硫黄島にでも行って働いたらどうだろう」と痛烈な批判を浴びせている。
正木の怒りは主に権力の座にのさばり、国民を圧迫し、責任感の欠如した特権階級者達
に向けられているのが特徴だ。昭和19年6月には、国民を圧迫し続ける権力者達にはいず
れ鉄槌が下される。その日のために権力者達のやったことを綿密に記録しておこう、といっ
た主旨の記事もある。
しかし、これだけの主張をしながら廃刊にならなかったのは不思議でもある。その理由
を歴史学者の家永三郎は、雑誌「思想」昭和39年1月号で、@発行部数が少ない、A発行者
が共産主義者ではない、B同誌には裁判官の支持者が多く、それが官憲にとって無言の圧
力となったーなどと分析している。