>>278の続き
当時の海軍省担当のキャップ新名丈夫記者は、この点を踏まえて新聞による一大キャンペ
ーンを社に進言。海軍担当のキャップが書いた記事については事前検閲不要という紳士協
定を利用し、新名記者自身が執筆したのである。新名記者は「八つ裂きにされてもかまわ
ぬ。社も潰されるかもしれない。しかし、それでもやるほかはない」との決意だったという。
もっとも、この記事は戦争批判ではなく、あくまで体制を肯定した上での提言記事だが、
悪化する戦局を一時的にも打開しようと考えれば、この主張は正論であった。
だが、こんな提言記事でさえ、陸軍やその頂点に立つ東条英機首相は許さなかった。無
検閲で発行された一連の記事を見た東条首相は激怒。発禁処分としたが、朝刊は既に配達
を終わっていた。
東条の怒りはその日の夕方、再び爆発した。毎日は同日夕刊でも、「一歩も後退許され
ず 即時敵前行動開始へ 現戦局・全国民に要請」と題した記事を掲載。ここでも海軍航
空兵力増強を訴えたのである。
こうした記事により、毎日は廃刊を迫られ、新名な責任を感じて進退伺いを出した。し
かし、吉岡文六編集局長はこれを突き返した上で、逆に新名に「金一封」の「特賞」を与えた。
新名はその後、陸軍によって"懲罰召集"され37歳の中年二等兵として兵役につかざるを
得なくなったが、海軍が報道班員として再徴用することで救出されたのである。
毎日は廃刊は免れたものの、抵抗はこれで終わった。新名記者は戦後、雑誌に寄せた手
記で「悲痛の限りであったことは、(抵抗が)たった一日であとが続かなかったことだ」と記
している。
この事件の際、朝日の緒方竹虎副社長(当時)と原田譲二代表取締役(同)が、「どうも飛
んだことで・・・・・・近火見舞いに来ました」と毎日新聞社を訪れたという。抵抗しない新聞
社の幹部として、緒方や原田はどんな心境だったのだろうか。