経営面で統制を受けると廃刊を賭したが・・・・・・
現に「竹槍事件」の後、怒った東条は内閣情報局の村田五郎次長を呼びつけ、毎日の廃刊
を命令したが、村田は「廃刊にするのはわけはありません。紙の配給を止めれば、毎日はあ
したから出ません。ただし、よくお考えになってはいかがですか。毎日と朝日はいまの日本
の世論を代表しています。その新聞の一つが、あのくらいの記事を書いた程度で、廃刊とい
うことになりますと、世論の物議をかもす。ひいては外国から笑われることになるでしょう」
(「毎日新聞百年史」毎日新聞社)と言ったとされている。大新聞を廃刊させる影響の大きさ
を政府の一部では認識していたのである。
しかも、大新聞が自主廃刊の挙に出るということは、当時突飛な考え方ではなかった。戦
時中、朝日の常務を務めた鈴木文四郎(文史郎)の手記(「中央公論」昭和23年2月号)によれ
ば、鈴木は昭和15年から開戦までの間に二度、社は解散を覚悟して軍官と戦うのが朝日の本
領であることを社長の村山に進言。しかし、その進言は重役会議にかけられることはなかっ
た、という。
それでも、朝日は一度だけ廃刊を賭けて戦う姿勢を示している。開戦直前の昭和16年秋、
朝日が東京日日(現毎日)、読売の2社と手を組み、政府に抵抗した時のことだ。
戦時体制が着々と整備されていたこの時期、政府は新聞界に新聞統合を提案したのである。
この新聞統合案は、全国の新聞社をひとつの会社に集約するもので、全新聞社の資本をひと
つの会社に吸収し、その幹部は政府が任命権を持つというものであった。
この案に朝日、毎日、読売の3社は抵抗したのである。11月中旬、朝日の村山長挙、上野
精一、緒方竹虎、石井光次郎の幹部は、読売、朝日の幹部8名と会談を開いて、3社はたと
え廃刊を命じられても歩調を乱さず、一致団結して政府の統制原案に反対することを確認し
あった。この結束を前に政府は新聞社一元化案を撤回、朝日は統合されずに済んだのである。
戦時中、なぜ、朝日は廃刊を賭けて政府に抵抗しなかったのだろうか。会社存続の危機と
いう事態では廃刊を賭けて戦っても、言論の自由のためには戦わない、ということだろうか。
戦争が始まった後、朝日社内では派閥争いが強まっていく。前述したように東京本社と大
阪本社、政治部、経済部などの硬派記者達と社会部を中心とする軟派記者達の対立が激しく
なり、社内抗争の果てに、朝日を出ることになった緒方竹虎は昭和19年夏、新聞を取り締ま
る側である内閣情報局総裁に就任するのである。
国家に危機が迫っているのに派閥抗争に明け暮れ、派閥抗争で敗れた幹部が言論機関を取
り締まる側に回るようでは、軍・政府への抵抗は望むべくもなかったのかもしれない。