猛威をふるった新聞紙法
「戦中・占領下のマスコミ」(松浦総三、大月書店)によると、戦時下において、言論を
縛った法令は次の26に上るという。
●治安・警察関係 刑法、治安警察法、警察犯処罰令、治安維持法、言論出版集会結社等
臨時取締法、思想犯保護観察法
●軍事・国防関係 戒厳令、要塞地帯法、陸軍刑法、海軍刑法、軍機保護法、国家総動員
法、軍用資源秘密保護法、国家保安法、戦時刑事特別法
●新聞・出版関係 新聞紙法、新聞紙等掲載制限令、出版法、不穏文書臨時取締法
●郵便・放送・映画・広告関係 臨時郵便取締令、電信法、無線電信法、大正12年逓信省
令第89号、映画法、映画法施行規則、広告取締法
こうした弾圧法規の中で、新聞を統制する上で、特に大きな役割を果たしたものを時系
列で見ていくと、新聞紙法がその筆頭に挙がる。
明治42年(1909年)に制定された同法は、安寧秩序を乱したり、風俗を害する記事の掲載
禁止を定めたもので、違反した場合には、行政処分として@内務大臣には、発売頒布禁止
(発禁)、差し押さえ権を認める、A陸・海軍・外務大臣には命令による「掲載禁止権」を
与えるーことなどを規定していた。
昭和6年に満州事変が起こると、軍・政府はこの新聞紙法をバックに検閲を強化するな
どして、言論、思想弾圧に目を光らせていく。表に示したのが、大正14年〜昭和9年まで
の新聞紙法による発禁件数の推移である。満州事変の翌年の昭和7年に発禁件数はピーク
に達しているのがわかる。
その翌年以降は、件数が減っているのは検閲強化が浸透し、新聞社が自己規制した結果
である。つまり、昭和7年を境に新聞社は軍・政府に対し従順になったことを示している。
ところで新聞紙法に定めた、「安寧秩序を乱し、風俗を害する」というのは抽象的で、具体
的にどのような記事を指すのかわかりにくい。そこで、内務省では、事前に記事差し止め
と呼ばれる措置を取った。これは事件や問題が起こった場合、書いてはならないことを示
し、書いた場合は発禁にすることなどを予告することだった。
記事差し止めには、記事の影響力に応じて@「示達」、A「警告」、B「懇談」の3つ
のパターンがあった。「示達」は内務省が指定した事柄を掲載した場合に、発禁はまず確実
というもの。「警告」は示達よりもやや軽く、発禁の可能性ありというものだった。「懇談」
は指定した事柄が記事になっても処分はしないが、新聞社と懇談して掲載させないように
することだった。
この記事差し止めはその後、内務省だけでなく、陸・海軍、外務省、内閣情報局も行う
ようになり、新聞社はその対応に悩まされた。
昭和12年に日中戦争が勃発すると統制は更に厳しくなった。陸・海軍・外務省は新聞紙
法に基づき、相次いで記事掲載禁止命令権を発動。軍事、外交については許可されたもの
以外、新聞社は書けなくなった。検閲では、軍事については、事前検閲が行われるように
なり、それまでの事後検閲に加え、二重の検閲を受けるようになったとされる。
さらに昭和13年には国家総動員法が公布された。この法律はその後改定され、政府が戦
時に際し、国家総動員上必要ある時は、事業の譲渡、廃止、合併、解散を命令できること
を定めた。これにより、政府が新聞の死命を制することができるようになった。
言論弾圧法規の総仕上げといえるのが新聞紙等掲載制限令と言論出版集会結社等臨時取
締法である。昭和16年1月に公布された新聞紙等掲載制限令は、総理大臣にも記事差し止
めと発禁にする権利を与えたものだった。一方同年12年に公布された言論出版集会結社等
臨時取締法は、裁判によらず行政処分によって発効停止を認めたほか、時局について造言
飛語し、人心を誘乱すべき事項を流布する者への罰則規定も含んでいた。
このように太平洋戦争が開始された頃には新聞は法令によってがんじがらめに縛られて
いたのである。