がんじがらめの法律
朝日新聞が、軍・政府に屈していく過程で、着々と進められたのが言論統制である。当
時の新聞はどんな法律や制度で制約を受けていたのかをまとめてみよう。
様々な言論弾圧法規の原点となったのが、言論の自由についての当時の憲法規定である。
大日本帝国憲法第29条は「日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由
を有ス」と規定していた。
この条文は法律の範囲内においては言論の自由を保障する、という意味で、無制限に言
論の自由を認めていたわけではない。あくまで「法律の範囲内」における自由であった。
この「法律の範囲内」という規定はあいまいで、支配権力がたやすく言論弾圧法規を作れ
ることを意味した。その理由は現在の憲法と対比するとわかりやすい。
戦後に制定された日本国憲法第21条は、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現
の自由は、これを保障する」と規定している。そこには、「法律の範囲内」というような
制約条件はなく、無条件に言論の自由を保障している。従って、この条文の下では、言論
を制約する法律を作ろうとすると、原理的には憲法違反になることを意味し、現憲法は言
論を抑圧する法律に抑止力を持っている。これに対し、戦前の憲法は言論を制限する法律
に抑止力を持たない。というのも「法律の範囲内」とあるように言論を制限する法律の登
場を前提とした内容だからである。
この憲法制定を背景に、戦前、戦中には各種の言論弾圧法規が続々と生まれていったの
である。
猛威をふるった新聞紙法
「戦中・占領下のマスコミ」(松浦総三、大月書店)によると、戦時下において、言論を
縛った法令は次の26に上るという。
●治安・警察関係 刑法、治安警察法、警察犯処罰令、治安維持法、言論出版集会結社等
臨時取締法、思想犯保護観察法
●軍事・国防関係 戒厳令、要塞地帯法、陸軍刑法、海軍刑法、軍機保護法、国家総動員
法、軍用資源秘密保護法、国家保安法、戦時刑事特別法
●新聞・出版関係 新聞紙法、新聞紙等掲載制限令、出版法、不穏文書臨時取締法
●郵便・放送・映画・広告関係 臨時郵便取締令、電信法、無線電信法、大正12年逓信省
令第89号、映画法、映画法施行規則、広告取締法
こうした弾圧法規の中で、新聞を統制する上で、特に大きな役割を果たしたものを時系
列で見ていくと、新聞紙法がその筆頭に挙がる。
明治42年(1909年)に制定された同法は、安寧秩序を乱したり、風俗を害する記事の掲載
禁止を定めたもので、違反した場合には、行政処分として@内務大臣には、発売頒布禁止
(発禁)、差し押さえ権を認める、A陸・海軍・外務大臣には命令による「掲載禁止権」を
与えるーことなどを規定していた。
昭和6年に満州事変が起こると、軍・政府はこの新聞紙法をバックに検閲を強化するな
どして、言論、思想弾圧に目を光らせていく。表に示したのが、大正14年〜昭和9年まで
の新聞紙法による発禁件数の推移である。満州事変の翌年の昭和7年に発禁件数はピーク
に達しているのがわかる。
その翌年以降は、件数が減っているのは検閲強化が浸透し、新聞社が自己規制した結果
である。つまり、昭和7年を境に新聞社は軍・政府に対し従順になったことを示している。
ところで新聞紙法に定めた、「安寧秩序を乱し、風俗を害する」というのは抽象的で、具体
的にどのような記事を指すのかわかりにくい。そこで、内務省では、事前に記事差し止め
と呼ばれる措置を取った。これは事件や問題が起こった場合、書いてはならないことを示
し、書いた場合は発禁にすることなどを予告することだった。
記事差し止めには、記事の影響力に応じて@「示達」、A「警告」、B「懇談」の3つ
のパターンがあった。「示達」は内務省が指定した事柄を掲載した場合に、発禁はまず確実
というもの。「警告」は示達よりもやや軽く、発禁の可能性ありというものだった。「懇談」
は指定した事柄が記事になっても処分はしないが、新聞社と懇談して掲載させないように
することだった。
この記事差し止めはその後、内務省だけでなく、陸・海軍、外務省、内閣情報局も行う
ようになり、新聞社はその対応に悩まされた。
昭和12年に日中戦争が勃発すると統制は更に厳しくなった。陸・海軍・外務省は新聞紙
法に基づき、相次いで記事掲載禁止命令権を発動。軍事、外交については許可されたもの
以外、新聞社は書けなくなった。検閲では、軍事については、事前検閲が行われるように
なり、それまでの事後検閲に加え、二重の検閲を受けるようになったとされる。
さらに昭和13年には国家総動員法が公布された。この法律はその後改定され、政府が戦
時に際し、国家総動員上必要ある時は、事業の譲渡、廃止、合併、解散を命令できること
を定めた。これにより、政府が新聞の死命を制することができるようになった。
言論弾圧法規の総仕上げといえるのが新聞紙等掲載制限令と言論出版集会結社等臨時取
締法である。昭和16年1月に公布された新聞紙等掲載制限令は、総理大臣にも記事差し止
めと発禁にする権利を与えたものだった。一方同年12年に公布された言論出版集会結社等
臨時取締法は、裁判によらず行政処分によって発効停止を認めたほか、時局について造言
飛語し、人心を誘乱すべき事項を流布する者への罰則規定も含んでいた。
このように太平洋戦争が開始された頃には新聞は法令によってがんじがらめに縛られて
いたのである。
軍・政府による”記事指導”まであった。
こうした弾圧法規を背景に、戦時中、言論統制の中核的役割を果たしたのが内閣情報局
だった。同局は昭和15年に、前身の内閣情報部が拡大改組されて発足。新聞紙等掲載制限
令が認めた内閣総理大臣による記事差し止め権と新聞と発禁にできる権限を活用し、検閲
や事前に記事掲載禁止事項を通達することなどを通じて、言論統制に当たった。
内閣情報局は新聞社への紙の配給権も握っていたため、新聞社は情報局の意向に沿わな
ければ、発禁や発行停止はもとより、紙の配給制限を確保しなければならなかった。
こうして新聞社の弱点を握った内閣情報局は、記事の検閲だけでなく、軍・政府に都合
の良いことを新聞社に書かせる。”記事指導”も行った。当時の代表的な新聞、通信社で
ある朝日、東京日日(現毎日)、読売、都(現東京)、報知、中外(日経)、国民(現東京)、同
盟(現共同、時事通信)の8社の編集幹部は、定期的に情報局と会合を持つことを余儀なく
され、軍・政府の意向に沿った記事を書くことを強要された。中にはあらかじめ、プリント
した原稿を渡されるケースもあったという。
戦争の拡大とともに、”記事指導”は内閣情報局だけでなく、陸海軍、外務省などの官庁
までが実施するようになり、新聞各社は文字通り、軍、政府の宣伝機関と化した。
言論統制に抵抗示した毎日の「竹槍事件」
これまでに見てきた戦中の朝日記事は、こうした統制の下に生み出されたのは事実である。
当時の朝日記者は「政府の取り締まりが厳しく、仕方がなかった」といったかもしれない。
しかし、戦争を推進した戦時下の朝日報道を全て言論統制のせいにはできないだろう。こ
うした統制下でも、公然と軍・政府に異議を唱えた新聞社はある。中でも当時の新聞界のも
う一つの雄、毎日新聞の起こした「竹槍事件」は、厳しい言論統制下でも、新聞社が抵抗の
姿勢を示した事件として知られている。
敗色濃厚となってきた昭和19年2月、戦争の見通しをあやぶんだ毎日新聞は発禁処分を覚
悟して検閲を通さずに、戦局悪化の事実と戦争指導へのあり方への批判を内容とする記事を
掲載した。これが東条首相の怒りを買い、毎日は廃刊の危機にさらされたのである。毎日は
この記事の中で、国民に竹槍で戦うことを求める陸軍の精神主義をこきおろし、竹槍では間
に合わない、飛行機を増産せよ、と提言したのである。もっとも、毎日新聞の例を出さなく
とも、言論統制に対する抵抗の仕方はあったはずである。例えば、戦況報道はできるだけ大
本営発表のものに限り、それ以外は極力掲載しない方針とし、感情的な表現でことさらに読
者をあおる報道を避けることはできなかったのだろうか。もし、それが軍・政府の圧力で不
可能であったならば、主張すべきことは主張して、廃刊するのも一つの方法であったはずで
ある。
国家の圧力で大新聞が消えたことを国民が知れば、それだけでも国民に事態の異常さを訴
えかけることができたのではないだろうか。当時の朝日記者に「新聞人」のプライドがあっ
たとすれば、それも保てたはずだ。
経営面で統制を受けると廃刊を賭したが・・・・・・
現に「竹槍事件」の後、怒った東条は内閣情報局の村田五郎次長を呼びつけ、毎日の廃刊
を命令したが、村田は「廃刊にするのはわけはありません。紙の配給を止めれば、毎日はあ
したから出ません。ただし、よくお考えになってはいかがですか。毎日と朝日はいまの日本
の世論を代表しています。その新聞の一つが、あのくらいの記事を書いた程度で、廃刊とい
うことになりますと、世論の物議をかもす。ひいては外国から笑われることになるでしょう」
(「毎日新聞百年史」毎日新聞社)と言ったとされている。大新聞を廃刊させる影響の大きさ
を政府の一部では認識していたのである。
しかも、大新聞が自主廃刊の挙に出るということは、当時突飛な考え方ではなかった。戦
時中、朝日の常務を務めた鈴木文四郎(文史郎)の手記(「中央公論」昭和23年2月号)によれ
ば、鈴木は昭和15年から開戦までの間に二度、社は解散を覚悟して軍官と戦うのが朝日の本
領であることを社長の村山に進言。しかし、その進言は重役会議にかけられることはなかっ
た、という。
それでも、朝日は一度だけ廃刊を賭けて戦う姿勢を示している。開戦直前の昭和16年秋、
朝日が東京日日(現毎日)、読売の2社と手を組み、政府に抵抗した時のことだ。
戦時体制が着々と整備されていたこの時期、政府は新聞界に新聞統合を提案したのである。
この新聞統合案は、全国の新聞社をひとつの会社に集約するもので、全新聞社の資本をひと
つの会社に吸収し、その幹部は政府が任命権を持つというものであった。
この案に朝日、毎日、読売の3社は抵抗したのである。11月中旬、朝日の村山長挙、上野
精一、緒方竹虎、石井光次郎の幹部は、読売、朝日の幹部8名と会談を開いて、3社はたと
え廃刊を命じられても歩調を乱さず、一致団結して政府の統制原案に反対することを確認し
あった。この結束を前に政府は新聞社一元化案を撤回、朝日は統合されずに済んだのである。
戦時中、なぜ、朝日は廃刊を賭けて政府に抵抗しなかったのだろうか。会社存続の危機と
いう事態では廃刊を賭けて戦っても、言論の自由のためには戦わない、ということだろうか。
戦争が始まった後、朝日社内では派閥争いが強まっていく。前述したように東京本社と大
阪本社、政治部、経済部などの硬派記者達と社会部を中心とする軟派記者達の対立が激しく
なり、社内抗争の果てに、朝日を出ることになった緒方竹虎は昭和19年夏、新聞を取り締ま
る側である内閣情報局総裁に就任するのである。
国家に危機が迫っているのに派閥抗争に明け暮れ、派閥抗争で敗れた幹部が言論機関を取
り締まる側に回るようでは、軍・政府への抵抗は望むべくもなかったのかもしれない。