満州事変前は「軍は危険」と訴える
満州事変が起きるのは昭和6年9月18日。大阪朝日はその直前の同年4月19日付
け朝刊の「内閣の決心を示せ 軍備整理の実現につき」と題した社説で「軍部の
一手に軍制改革の大事業を任せて置くことはわが国策のうえに多大の不安が伴生
する虞れがあるのである。この上は内閣の方針として軍備整理及びこれに伴う経
費節減額を決定し内閣において断然これが実行の決心を示すべきである」と軍縮
断行を強く求めている。
また、同朝刊経済面の「財界六感」では「整理緊縮と金ピカ禍」の見出しの後
に、「陸海軍大将を即座に一ケ小隊もズラリと並べ得る国といったら、我国を除
いては、恐らく世界中のどこにも発見出来まい。何も大将が多いから強いという
わけでもあるまいにー。(中略)金ピカの禍もまた大なるかなだ」と金色の階級章
を付けた大将を多数抱える軍を痛烈に皮肉り、軍首脳部を削減すべきと主張して
いる。
軍の政治、外交への介入や横暴ぶりにも手厳しい批判を浴びせている。同年8
月8日の社説では、「軍部が政治や外交に喙を容れ、これを動かさんとするは、
まるで征夷大将軍の勢力を今日において得んとするものではないか。危険これよ
り甚だしきはない。国民はどうしてこれを黙視できようぞ」を論陣を張っている。
さらに、大阪朝日はその後も満州での武力行使を戒める論調を展開。事変発生
前日の昭和6年9月17日朝刊社説でも「故に吾人は若槻首相に望む。昨今満蒙問題
の論議、漸く激化する折柄、軍部の昴奮を善導して意外の脱線行為なからしめ、
これを支柱として対支外交に清鮮味を加えその基礎の上に国際正義に本づく近代
的外交の殿堂を築き上げんことを。(中略)これが何人かの手によって成し遂げら
れなければ、徒らに退嬰の結果による衰退か、または猪突主義による顛落か、日
本の運命は二者その一つを出でないであろうことを確信する」と論じ、満蒙問題
を中国との外交により解決するよう求めている。
その翌日、満州事変が勃発。日本は日中戦争、太平洋戦争と続く、いわゆる15
年戦争の泥沼に足を踏み入れ、破滅への道を突き進むことになる。この社説は皮
肉にも、坂道を転がり落ちる事変以降の日本の姿を予見するものであった。