いずれにしろ、この細川らの提案で事態はさらに紛糾し、騒ぎは大
きくなった。細川らの動きを契機に、村山の姿勢に対する批判が起こ
り、今度は社内の各部から幹部総退陣を求める動きが活発化したので
ある。
まず、東京編集局部長会議は細川ら6人に同調「朝日新聞はその言
論報道機関たる重責に鑑み戦争責任を痛感し、内外に対しその責任を
明らかならしむる措置を執るべきものと信ず。よって我々部長会はさ
きに総長、三編輯局長、論説両主観より社長に対して提示せる要請を
全幅的に指示すると共に、その責任は現全部長に及び、その地位を去
るべきものなりとの意見に一致せり」との意見書を村山に提出した。
この東京編集局部長会の決定を大阪、西部の編集局部長会も支持。
一方、東京編集局内には代表委員会が生まれ、19日には東京本社で社
員有志役700人が集まり、社員大会を開くなど、村山退陣や強行人
事撤回を求める運動は全社的なものにたっていった。
この社内情勢の変化へ窮地に立った村山はついに辞任を決意、22日
に@今回の人事異動並びに機構改革の白紙還元、A社長・会長は戦争
責任上、自発的にその地位を退き社主となる、B全重役も辞任する。
但し本社運営に必要な数名は残す、C編集総長、三局長及び二論説主
観は現職を退くーなどの方針を発表した。
これで事態は収拾したが、こうした経緯を見る限り、朝日の幹部達
は自発的に戦時中の報道を反省し、責任を取ったのではなかった。派
閥抗争と責任逃れの行き着いた先が幹部の退陣だったに過ぎなかった
ようである。
ところで、幹部の責任明確化を求めた朝日の一般記者達は自らの戦
争責任についてはどう考えていたのであろうか。当時の記者達の意識
を示すエピソードや記事が残っている。
敗戦が決定的になった8月12日、東京本社社会部では20数人の記者
達が、今後について話し合いを始めた。その中で武野武治記者は「記
者全員が辞職すべき」と発言したが、ほかの記者は沈黙し、武野の意
見に賛同したものはひとりだけだったという。この後、責任を感じ、
実際に辞職したのは武野のほか少数の記者だった。朝日の一般の記者
達の多くは幹部同様、罪の意識はあまり感じていなかったのかもしれない。
一方、辞職に追い込まれた村山派の鈴木文四郎(執筆名は文史朗)
は「中央公論」(昭和23年2月号)でこう書いた。戦時中の記者がそ
のまま社に残り、戦時中とはガラリと変った紙面を作っていることへ
の批判である。
こうした行き方は、夜郎自大というよりも、無反省と無思慮がさせ
る業であった。軍人と酒を飲み、晩めしをいっしょにするのを誇りと
していた男が、あるいは陸軍省の「指導記事」の作文まで得意になつ
て手伝つていた男が、あるいは軍官の命令の先き走りをして統制の強
制力を絶対必要と常に説いていた男が、あるいは天皇の神性や「みい
くさ」の「深遠」な意義を狂信的国学者のお株をとるつもりで書いて
いた男が、同じ鉛筆をもつて、それまで書きつづけって来たものとは
対蹠的な作文を書き出して、読者がー少くとも識者がーこれを納得し
ていると思つたら、それは世間様というものを余りに甘く見るもので
はなかつたろうか?
鈴木の批判は、そうした記者達をきちんと管理できなかった経営者
の責任を全く無視したものだが、戦中、戦後の記者の姿を暴露してい
るのは間違いない。もちろん、戦時中の記者すべてが、鈴木がいうよ
うな記者ではなかっただろう。しかし、この鈴木の指摘と無縁の記者
は果たして何人いたのだろうか。